Российско-украинский кризис (2021—2022)

      

    ロシアによる軍事介入開始から1ヶ月が経ちました。ロシアは攻め続け、ウクライナは西側を中心とする諸外国の支援を受けながらロシアを追い返そうとしています。ロシア軍は士気を失ったとか、逆にウクライナは多くの支援を受けて善戦して街を奪還しているとか、さまざまな情報が流れていますが、はっきりとしたところはわかりません。
 今回はなぜロシアが西側を警戒しているのか、その歴史をロシア語の単語の話とも併せて書きたいと思います。

 ロシアは広大な領土を持つ国ですから、幾度となく戦争を行ってきたということは推測できると思います。
日本の現在の面積は38万平方キロメートル。世界地図で見ると物凄く小さいですね。
それに対してロシアの面積は1710万平方キロメートル、日本の面積の45倍です!世界の陸地の10%を占めているという恐ろしく大きな国家です。ロシアはなぜこのような広大な領土を持つに至ったのでしょうか。
 ロシアの歴史は、9世紀にキエフ(現ウクライナの首都)で洗礼をうけたウラジーミル1世によって始められました。現代のロシアを見て、暴力的に領土を拡大しているようなイメージを持つ人もいると思いますが、実は歴史的に見ればロシアは非常に平和的・友好的に領土を広げた国なのです

 歴史を振り返ってみましょう。
 13世紀、ユーラシア大陸で、強大なモンゴル帝国による領土拡張政策が始まります。最終的に世界の半分を支配するタタール人(モンゴル人)によって、ロシア人(現在のロシア地域に居住していた人たちで当時は「ルーシ」と呼ばれていた)は攻撃を受けました。ロシア人たちは抵抗しました。しかし敗れ、モンゴルの支配下に組込まれることになりました。15世紀末まで約250年間続いたこのモンゴルによるロシア地域の支配を、ロシア側から見て「タタールのくびき」といいます。タタール人たちは、最終的にモスクワを陥落させることができずに去って行きました。モンゴル帝国による支配の間しばらく続いた比較的平和な時代(モンゴル帝国晩年を除けば、強大であったが故に目立って大きな戦争は起きなかったため平和だった)を「パクス・モンゴリカ(モンゴルの平和)」といいますが、先述のとおりロシア側の見方は「くびき」です。モンゴルによる侵攻によって、多くのロシア人が虐殺されるなどしたためです。
 16世紀はリューリク朝の末期です。この時代のロシア皇帝はイヴァン4世でした。イヴァン4世には領土拡張にあたって、西ヨーロッパと戦うという選択肢もありましたが、その選択肢は選びませんでした。なぜでしょう。一つには、西ヨーロッパの状況が挙げられます。種子島に銃が伝わったことからわかるように、ヨーロッパの強国は火縄銃などを持っていました。飛び道具を使う軍隊と戦うのはリスクが大きいですから、できれば避けたいものでした。もう一つ挙げられるのは当時のロシアの東に生息していた動物の存在です。当時ロシアの東にたくさん生息していたミンクやクロテンなどの毛皮は西ヨーロッパでは高級品で、特に貴族が欲していたものでした。これらを売って儲けを得るほうが、戦争をするより平和的・友好的に発展できたのです。ですから当然ロシアは後者を選びました。イヴァン4世は食事係として使っていた貴族のストローガノフ家に命じて、ロシアの東方(シベリア方面)を開拓させました。ストローガノフ家はコサックを雇って、東に向かわせました。コサックが東に行くと今度はかつてロシア地域に侵攻した後撤退したモンゴル人たちと遭遇するわけですが、このモンゴルでの戦闘は、昔の仕返しということになりますから、ロシアが始めた戦闘ではありません
 ちなみに簡単に説明すると、下の図のようになります。[ヨーロッパの東隣に誕生したロシアは平和的に東に拡大→東で貿易用の品を確保したものの寒すぎて生活・輸送に困る→凍らない地を求めて南に拡大→南に拡大した結果、20世紀に現在の中国のあたりに植民地を求めて集まってきていた列強諸国と衝突]
    Expand territory

 16世紀に話は戻ります。イヴァン4世が死去すると、彼には跡継ぎがいなかったため、リューリク朝は終わりを迎えます。このあと「私はイヴァン4世の息子、ドミトリーである」と自称する「偽ドミトリー」が現れました。ロシア人は誰も相手にしませんでした。すると、彼はポーランド軍を率いてロシアに攻めてきます。時代の節目はいつも混乱が起こります。難しい時代の中、ロシアはポーランド軍をなんとか打ち破ることに成功しました。しかし今度は「第2の偽ドミトリー」が現われました。彼もまたポーランド軍を率いてロシアを襲ってきました。ロシアはまたポーランド軍と戦い、ここでも勝利を掴みました。
 19世紀に存在した有名な人物といえば、フランスのナポレオンが挙げられます。フランス国内での革命が波及するのを恐れた周辺の諸外国がフランスの革命軍を制圧しようと政府軍に味方していたため、革命成功後にナポレオンは革命勢力と敵対していた周辺諸国に侵攻していきました。ロマノフ朝のロシアも1812年にこの攻撃(1812年祖国戦争:1812年6月~12月)の被害に遭いました。この時ロシアに有利に働いたのは2つの将軍、「ぬかるみ将軍」と「冬将軍」です。2022年のウクライナへの侵攻では、戦車がぬかるみにはまらないようするために2月が侵攻の時期として選ばれると見た専門家もいました。1812年のフランスは、氷の張る2月をロシア侵攻の時期に選ばなかったために、作戦通り事を運ぶことができませんでした。寒さも重要でした。ロシアとの戦争は11月・12月にまで入り込みました。10月でもそこそこ寒いロシアに、寒さに慣れていないフランス軍が攻め込むわけですから、続けられるわけがありません。フランス軍は撤退していきました。ロシアはこのあとフランスに攻め込むわけですが、ロシア地域から退散していくフランス軍を追ってフランス領内に行ったので、この戦争もロシアにとっては自分たちが始めた戦争ではありません
 20世紀には、ロシアはドイツなどと戦いました。ロシア革命後のソビエトロシアの脆弱性につけ込んで、ドイツ帝国やハプスブルク帝国、オーストリア・ハンガリー帝国などが独立を宣言したウクライナを支援する形でロシアと戦争をしました(今回の危機の火種を作ったのはこれらの国です)。そして第二次世界大戦では、ソ連はナチスドイツに攻め込まれます。ドイツが各方面に戦力を割いたのと同じく、ソ連も各方面に戦力を分散させ戦いました。この大戦では、対ドイツ戦線以外も含めて2000万人のソ連人が亡くなりました(ロシアでは5月9日が対独戦勝記念日です)。
 こうしてロシアの戦争の歴史を見てみると、ロシアの歴史は「攻め込まれた戦争歴史」であることが分かります。
 国内を見てみましょう。18世紀には皇后エカテリーナ(2世)が夫のピョートル3世を殺害するクーデターを計画し、近衛兵がこれを実行に移しました。その後、エカテリーナが即位しました。19世紀には、西ヨーロッパのロシアより進んだ国内事情を目の当たりにした将校たちによる反乱が画策されます。ロシア皇帝の専制政治や農奴制がロシアの発展を阻害しているとして、セルゲイ・ムラビヨフら元近衛兵が中心となり200人あまりの秘密組織を作りました。その後実際に皇帝暗殺を決意した集団がここから出て別の実行性のあるグループを作りました。彼らは1825年の12月に皇帝暗殺を計画しましたが、情報が漏れて結局暗殺は失敗に終わりました(デカブリストの乱)。さらに19世紀末には、反体制派によって皇帝アレクサンドル2世が暗殺されました。アレクサンドル2世はそれ以前に複数回の暗殺未遂に遭っています(ちなみにその一つは、原発の占拠で現在問題になっているザポリージャで行われたものでした。皇帝が暗殺されたという歴史的な場所が今はウクライナの領土なんですね)。
 ロシアは、対外戦争だけでなく、宮廷の中においても皇帝の暗殺が幾度も企てられるなどして、平和や安全の確立に苦しみました。危険が常に存在していたのです

 ロシア語の単語を見てみましょう。
 ロシア語の単語で「危険」を意味するのは"опасность(アパースナスチ)"。 では「安全」は?
「安全」に相当する単語は"безопасность(ビザパースナスチ)"で表されます。
 "без(~無し)" + "опасность(危険)" = "безопасность(危険無し)"
 なぜ「安全」という独立した単語がないのでしょう。上述の歴史を見れば明らかです。ロシアには安全な時代など、安全な場所などなかったからです。

 今回のロシアによるNATOへの東方不拡大要求。「こんな時代に戦争を仕掛ける西側諸国なんていないだろ」と思った人もいるかもしれませんが、ロシアは本気で警戒していたのです。「安全」とは無縁だった国家、常に侵略の恐怖に苛まれていた(それゆえに一時8000発もの核兵器を持った)ロシアの気持ちを理解しようとした国が、果たしていくつあったのでしょうか。




■参考文献
なし