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 ウクライナ情勢に関して、軍事侵攻開始直後の専門家の見方を『「強いロシア」の再興』と題して記事に書きました。その中で筆者は、日本の一部の「専門家」たちが「プーチン大統領はソ連を再興しようとしている」という見方を持っていることを紹介しました。今回の記事はそれがプーチン大統領の見方とは異なっているということを書いていきます。

 結論から述べますが、プーチン大統領が目指しているのは「強いロシアの再建」であり、それは「ロシア帝国」の再建なのです。「ソ連の再建」ではありません。

ロシア革命

 まず、プーチン大統領はソ連(とその前の臨時政府)を認めていません。なぜならこれらは、ロシア帝国(1721-1917)からの法的継承性を欠いている、暴力に拠って建てられた国家だからです。ロシアの歴史は9世紀のキエフ大公国から始まると言われています。その後、ノヴゴロド公国やモスクワ大公国などを経て、ロシア帝国(1721ー1917)に至るまで、最高権力者の法的継承性を以て変遷を繰り返してきました。しかし、1917年には二月革命と十月革命という2つの革命が起き、相次いで法的継承性が無視されて権力の移行が行われました。
 「二月革命」は、専制政治や食料、戦争などの問題に不満を持つ市民がケレンスキー指導の下で起こした革命でした。当時は兵士(専制支配は兵士が要でもある)も権力側に敵対する立場にまわっていました。結果、ロシア初の民主派政権(臨時政府と呼ばれる)が誕生しました。そして約半年後に起こった「十月革命」は、レーニン率いるボリシェヴィキが二月革命で成立した臨時政府を倒して、世界初となる社会主義国家、ソヴィエト社会主義ロシア共和国を建国したというものでした。5年後の1922年のソヴィエト連邦建国により、この国はその一構成国となり、1991年のソ連解体まで70年以上存在し続けました。
 1917年に起こったこれらのことは「革命」であって、法律に基づく正式な権力移行ではありません。現代における正式な地位や権力の移行は、皇族や王族に関しては継承順位に基づいて、政治家に関しては基本的には選挙・投票結果に基づいて行われます。当時のロシアでは、皇帝一家にのみ権力を授けられる権利があったのです。「革命」という方法は暴力に依拠するものであり、今も昔も認められるものではありません。
 カザコフ(2020)では「歴史的、そして厳密な法的観点からみれば、権力は簒奪者たち(臨時政府)に奪われ、その後、それを強盗たち(ボリシェヴィキ)が取り上げた。こうして私たちは、「いかなる制約も受けず、いかなる絶対的な法にも遠慮せず、暴力に拠って立っている」(レーニン流である)権力のもと、二十世紀を生きたのである」という批判もされています。
正式なロシアの歴史は1917年で止まっています。プーチン大統領はロシアの立ち位置を法的な観点から見直してロシア帝国の時代に戻り、最高権力者の証である赤いマントと王冠、王笏と帝王の権標を戴こうとしているのです。

革命を起こした者たち

   革命によって権力移行が行われたこと以外にも、ロシア革命には問題があるのです。ロシア革命を主導して権力を手に入れた人物たちについて見ていきます。先に結論を述べますが、彼らは「どこから来たのかわからない人たち」なのです。
 革命から90年後の2007年に、ドイツのミュンヘンで西側のリーダーたちを前に演説を行ったプーチン大統領は、「世界統一政府」の樹立を企む集団がいることに言及し、非難しました。EUやNATOといった多くの国を巻き込んだ経済的または軍事的な集団は、「世界統一政府」樹立の第一段階として組織されたものであろうと述べたのです。91年のソ連解体に伴い、NATO(ソ連・東側陣営へ対抗するための軍事同盟)の存在意義はなくなったかに見えましたが、依然存在し続け、対ロシア同盟としての動きを活発化させてきました。しかし「対ロシア同盟」というのは表向きの話であると見ることができるのです。プーチン大統領の指摘するように、これは「世界統一政府」樹立のための足がかりである可能性があります(日本では陰謀説に分類されてしまう話なので詳しくはこちらを参照してください)。
 ここで「世界統一政府」に関する話を書いたのは、これが1917年の革命とも関係しているからです。
 十月革命では、レーニン率いるボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党から分裂した社会主義志向の集団で、分裂したもう一つの集団に比べて人数が多かったのでボリシェヴィキ(多数派)といわれる)が臨時政府を倒しました。レーニンが『共産党宣言』で引用した有名な言葉に「万国のプロレタリアート(労働者)よ、団結せよ」という言葉があります。資本家を倒して労働者独裁を打ち立てるべきだ、という呼びかけでした。しかし、この革命を成功させても、労働者たちにはいいことがありませんでした。ソ連の生活を思い描いてもらえればわかるはずです。富は資本家ではなく共産党幹部の手の中に入っていったのです。つまり「万国のプロレタリアートよ、団結せよ」の続きは、「よりよい生活のために資本家を倒そう」ではなく「共産党指導部がお金儲けできるように資本家を倒そう」だったわけです。レーニン自身も『何をなすべきか』で「社会主義的意識はプロレタリアートによる階級闘争の中から自然と湧いてきたものではなく、外部から注入されたものだ」の述べています。そこで気になるのは「外部」とは誰かということです。ロシアにおいては、一般人の教育水準は非常に低かったわけですから、つまり闘争の中に理論を提供できるのは、ロシアの貴族か、もしくは他の国(ヨーロッパ)で入れ知恵された者に限られます。既得権益を持つ貴族がそんなことをするはずはありませんから、入れ知恵された者ということになるでしょう。これについて鈴木(2011)には、「ユダヤ金権勢力(金と権力にがめついユダヤ集団)」についての記述があります。
 レーニンは二月革命のころ、ロシア国内ではなく、ヨーロッパ(スイスやフィンランド)にいました。二月革命成功後の臨時政府による統治期間中にロシアに戻ってきて、十月革命を起こして権力を手にし、ソヴィエト社会主義ロシア共和国を建国しました。臨時政府は民主的な政府で、ソ連政府は社会主義政府ですから、一見すると臨時政府は良い政府でソ連政府はあまり良くない政府であるかのようです。しかし鈴木(2011)では「両者の背後はいずれも同一集団(ユダヤ国際金融資本家)なのである」 「彼らが最初にケレンスキーを使ったのは、そのとき国内にレーニンがいなかったからにほかならない。レーニンは後日、彼らが手配した封印列車でロシアに送りこまれた」と述べられています(つまりどちらも良い政府ではないということです)。
 そのような金権勢力がいると仮定してみると、なぜケレンスキーには民主派政権を作らせ、レーニンには社会主義国家を作らせたのかという疑問が生じます。これら2つの権力機構は反対の方向を向いているように思われるからです。
 しかし、これはたいした問題ではありません。ユダヤ金権勢力は、付け入る隙のなかった世界最大のキリスト教国家ロシアを倒せればそれでよかったからです。鈴木(2011)は、日露戦争もまたユダヤ国際金融資本家(=ユダヤ金権勢力)の仕業であると述べています(これについてはこちらを参照)。戦争によりロシアを弱らせて、国民の不満を増大させて革命を成功させようという算段です。見事にロシア帝国は内部から倒され、彼らの思い通りにできる国が生まれました。こうしてソ連時代、国のお金は共産党幹部を経由して、最終的にはユダヤ金権勢力の懐に入っていきました。
 レーニン(母がユダヤ人)もトロツキー(レーニンを戦術面で支えた)もユダヤの影響を受けた人物でした。レーニンが基盤としたマルクス主義のマルクスもユダヤ人、それより前にそれと反対の理論を唱えていた「神の見えざる手」で有名なアダム・スミスもユダヤ人でした。全てがユダヤ金権勢力の掌の上で展開されているかのようです。日本では「陰謀論」と退けられてしまうような話ですが、信じない人が多いということは、ユダヤ金権勢力が仮に実際に存在していた場合、彼らにとって好都合ということになります。
 いずれにせよ、、プーチン大統領はこれを信じています。なぜなら彼自身がユダヤ金権勢力の1人でオリガルヒのボリス・ベレゾフスキーの後押しで大統領になったという過去があるからです。「どこから来たのかわからない人たち」と書きましたが、それは「ロシアの最高権力者の資格を持たない、ユダヤの手先」ということを意味しています。

ロシアの国旗

 ロシアでは白青赤三色を使った旗が2つあります。一つは三色のみの「国旗」で、もう一つは三色の国旗の中央に双頭の鷲が描かれた「大統領旗」です。
 双頭の鷲は、モスクワ大公イヴァン3世が、東ローマ皇帝の姪ソフィアと結婚したときから使用され始めたものです。この結婚があったため、1453年に東ローマ帝国が滅亡してからピョートル大帝がロシア帝国を建国する1721年まで、ロシアこそキリスト教(東方正教会)とローマ帝国最期の拠点(第三のローマ)であるという考えに基づいて国旗に使用されました。ピョートル大帝が建国したロシア帝国では、この双頭の鷲は国章として用いられることになりました。ロシア帝国も第三のローマとしての地位を引き受けたのです。しかしソ連時代は鎌と鎚の共産主義の赤い旗に取って代わられました。プーチン大統領の時代になった現在は、国章にも大統領旗にも双頭の鷲がいます。まさにこれがプーチン大統領のロシア帝国(第三のローマ帝国としてのロシア)への想いの表れであると見ることができます。
    Flag

ソ連時代の不正と汚職

 ソ連時代は、まずその国家の正当性の象徴である「ナチズムからの世界の救済(第二次世界大戦における特にナチスドイツに対する勝利)」をはじめ、アメリカに先んじての有人宇宙飛行や、冷戦期における東側陣営の中心という超大国としての地位の確立が特徴として挙げられます。確かにこの時ソ連は「超大国」と呼ばれていましたが、プーチン大統領が再興したい「強いロシア」はこのことではありません。
 「超大国」として東側を率いたソ連では一方で、世俗国家としての宗教の弾圧、農業集団化の失敗や権力闘争に係わるスターリン期の粛正、軍事分野への過剰な投資、物不足、不正や汚職などが起き、最終的には国家を解体させるに至りました。そんなソ連を再建する意味などありません。
 ソ連時代には法が軽視され、不正や汚職が横行しました。ロシアには「法ニヒリズム(法軽視)」の特徴があります。これは政界の人間だけでなく、一般の国民の間にも浸透しています。「法律を作る側の人間がそれを守らない。それなら私たち一般市民も守る必要はない」というのが一般市民の見方です。それは半分事実ですが、半分嘘です。西側東側関係なく、国家を維持するために必要な法律でさえ、ロシア人は軽んじる傾向がありますし、例えば日本に来ていても日本の法律を軽視します。また権力者の私腹を肥やすような悪い制度・法律に関して、スミス(1978)で述べられている「一般の人たちは制度のその部分を変えたいと思っていない。そこから逃れたいと思っている。彼らは制度が悪いとは言わない。自分だけに例外であれば、と願っているのだ」という指摘はごもっともです。 理由はどうあれ、とにかくソ連では国家全体で、かなり酷いレベルで、不正と汚職が横行していました。
 不正や汚職の撲滅は、プーチン大統領が大統領就任に際して唯一公約としたものです。大統領就任前のプーチン大統領は、KGBの情報員やサンクトペテルブルグ市(故郷)の副市長として働きましたが、上司には忠実に、仕事には真面目に取り組んでしました。不正や汚職をしない人間として知られていました(それゆえ、後にエリツィン・ファミリーから大抜擢を受けるわけです)。不正や汚職の最たる例となったのが、ソ連解体後に発覚し、2000年代初頭にプーチン大統領が肝を据えて対峙(退治)しなければならなかったオリガルヒ(新興財閥)の出現です(プーチン大統領がオリガルヒを退治しなければ、ロシアは今も大混乱の時代になっていたでしょう)。これはソ連時代のいい加減さが招いた結果に他なりません。代表的な7人の男たち(うち6人はユダヤ人)はソ連末期の時代の流れに目を付け、ロシアが資本主義になる時を待っていました。そして国有企業売却の際に政府と癒着して、タダ同然の金額で国有企業を買い(譲り受け)、その後自由市場で大儲けしたのです。後に彼らは「オリガルヒ」(政府と癒着して金儲けをした盗人成金)と呼ばれるようになりました。オリバー・ストーン監督との対談の中でプーチン大統領が語っていたように、共産党の指導部はソ連の末期になると互いを表彰し合って「もう重要な決断を下せない」状態になっていました。そしてソ連解体時のエリツィン大統領も、自身が進める資本主義の意味すら理解していなかったのです。
 年世紀も続いたロシアの伝統を革命が破壊し、長いソ連の時代が人々の生活を混沌に陥れ、国をめちゃくちゃにしました。ロシア人(ロシアに生きる人間)としての誇りを取り戻すために、ソ連の代名詞とも言える不正と汚職を根絶することをプーチン大統領は自身の一つの使命だと考えているのです。ソビエト的価値観、風習は正すべきものであり、再建すべきものではありません。

領土

 専門家が「ソ連再建」だと勘違いしている理由の一つは、ロシアの行為が事実上領土拡大につながっているからです。
 2014年のクリミア紛争ではウクライナ南部のクリミア半島をすでに取り戻し、2022年の戦争ではウクライナの東部地域をロシアに取り戻そうとしています。これらはもともとロシアの領土だったのですが、それはソ連時代においてそうだったというわけではありません。
 2014年はターゲットだった南部のクリミア半島は確かにソ連時代の途中までロシアのものでしたが、2022年のターゲットである東部地域はソ連時代にはすでにロシアのものではありませんでした。
 別記事でも述べましたが、現在のウクライナの誕生は、1918年のブレストリトフスク条約に関係しています。第一次大戦のあと、国家の建国を目指すキエフ議会は、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、ハプスブルグ帝国、ブルガリア王国の協力を得て、ロシアに国家「ウクライナ」の建国を認めさせました。同条約では、ロシア西部のロシア人が住んでいる地域を一部含む形でウクライナの国境が画定され、それにより新国ウクライナの中にロシア人が取り残されてしまったのです。このとき、キエフの議会は外国勢力の力を借りてロシアにウクライナの建国を認めさせたわけですが、ロシア側の交渉相手はレーニン、つまり「どこから来たかわからない」ユダヤ金権勢力の操り人形だったのです。ここに真のロシア人の意志は反映されていません。
 ロシア帝国から革命で政権を取ったのは臨時政府、その臨時政府から革命で政権を取ったのはレーニンをはじめとする共産革命勢力です。ロシア帝国の領土を、革命勢力が交渉によって(それも居住区域に関係なく)勝手にウクライナに渡してしまいました。国家継承に関して法的根拠のない集団が、交渉(国境画定を含む条約締結)や国家建設(ソ連)を行ったのですから、プーチン大統領はこれを正式なロシアの歴史として認めるわけにはいきません。
 ソ連時代にも同じような形態のことが起こりました。共産党書記長だったフルシチョフが、ロシア共和国とウクライナ共和国の友好の証として(実はウクライナでの人気取りのため)、ロシア共和国のクリミア半島を、ウクライナ共和国にプレゼントしてしまったのです。当時はロシア共和国もウクライナ共和国もソヴィエト連邦内の一共和国に過ぎなかった上、ソ連の公用語はロシア語でしたから、特に問題は起こりませんでした(小笠原諸島を東京都から神奈川県に編入するようなもの)。しかし、91年のソ連解体後には、2つの共和国は別の国家として独立したため、クリミアはウクライナの領土となり、完全にロシアのものではなくなってしまいました。クリミア半島は黒海に面しているため、これをウクライナが持つかロシアが持つか、両国にとっては交易上重要な問題です。プーチン大統領は、これはロシアが持つべきだと考えています。なぜなら上述の通り、これはロシアの領土であったし、それを他国(ウクライナ)に渡したのはレーニンの作った国を指導するフルシチョフ(「どこから来たのかわからないリーダーたち」の後継者)であったからです。

ソ連に戻りたい者には脳がない

「ソ連に戻りたい者には脳がないが、ソ連が恋しくない者には心がない」

プーチン大統領は2000年に過去にこんな発言をしていました。実はこれはアレクサンドル・レベジ元ロシア軍中将が自伝『憂国』(1997)の中で書いていることと同じなのですが、プーチン大統領も同じ考えを持ってるのです。

ソ連建国に至ったロシア革命と、ソ連時代の不正と汚職については上述のとおりです。加えて精神面についても見ていきましょう。
 精神面では宗教の存在が重要です。ソ連時代、人々は無神論者であることを求められました。
 現代ロシアには様々な宗教があります(プーチン大統領は信教の自由を力強く認めている!)が、ソ連時代は宗教は抑圧されていました。日本とは違いヨーロッパでは、宗教は様々な分野に非常に強い影響を及ぼすからです。富を独占する共産党指導部に楯突く者が出てきては困るのです。フルシチョフは「宗教はアヘンだ」とも言っていました。
 ロシア帝国の時代は、ロシア正教が主流でした。ロシアは「第三のローマ」となっていましたから、多くの人が正教を信仰し、精神的な支えを受けていました。ロシア皇帝は、単なる国の最高権力者ではなく、精神的な指導者でもありました。ですから、ソ連時代に無神論が強要されたことは、国民の内なる精神の否定がなされたというだけではなく、ロシア皇帝の存在意義も否定されたことを意味するのです。つまりソ連政府は、国民から実際的にも形式的にも自由ややすらぎを取り上げていたのです。
 スミス(1978)は「我が国(ソ連)での生活は空虚で耐えられないから」「宗教は何か拠り所を与えてくれる」という理由で聖書を読むソ連国民が増えたといいます。ロシア正教は、ソ連当局に寄付をすることで生き延びてはいましたが、説教をしたり改宗させたりすることは許されませんでした。ですから「隠れて自分で聖書を手に入れてなんとなく読む」という人が多かったのでしょう。ロシアであまり敬虔ではないキリスト教徒やイスラム教徒によく出会うのは、このことに起因しているのかもしれません。
プーチン大統領の言葉は以下のように解せます。
「どこから来たのかもわからない「革命家(ユダヤ金権勢力の手先)」が国を乗っ取り、精神的自由を奪って人々を苦しめていたソ連という時代に戻りたい者には脳がない。人々が当局の目を欺きながら、助け合って、ひたむきに生きていたソ連という時代を恋しく思わない者には心がない。」
この言葉が、革命前のロシア帝国を再建したい(あの頃に立ち帰り、もう一度、自分たちの手で正しいロシアの未来を作りたい)という彼の気持ちをよく表しています。

民族統一の日

 2005年にロシアは、11月7日の革命記念日(10月革命はユリウス暦のカレンダーであり、グレゴリオ暦では11月だった)を廃止し、かつて17世紀にポーランドの占領者たちをモスクワから追放した「モスクワ解放の日」(スムータ[大動乱時代]の終わり)である11月4日を祝日「民族統一の日」として新たに制定しました。
 ロシア帝国消滅以降の革命勢力による国家運営を認めないプーチン大統領は、とにかくこの革命記念日を無くしたいと考えていました。この記念日を無くして、ロシア帝国と現在のロシアを繋げるような記念日を作りたかったのです。これは2005年、つまりプーチン政権2期目の最初の年に行われたことであり、1期目で(ユダヤ勢力に荒らされた)ロシア経済の立て直しをある程度軌道に乗せた後の、次なるプロジェクト「偉大な(正統な)ロシアの再建」の開始を意味するものでした。
 ところが、カザコフ氏の指摘するとおり「国家は祝日を制定しておきながら、国民に対してその明瞭な意味も形式もきちんと提示しなかった」ため、どういった目的で制定された祝日なのかがいまひとつ伝わらなかったのです。祝日が別の日に換わるだけ(歴史的には重要でも日常生活には何の影響もない)ですから、国民がその深い意味に関心を持つようなものではありませんでした。
 祝日ですから、なんとなくお祝いムードが生まれそうな日ではあります(ロシアは日本以上に個々の祝日を盛大に祝います)。しかしカザコフ(2020)では「スムータの集結を祝うことはできない」と述べられています。なぜならスムータの集結は亡くなった仲間の数を数え始める日であり、それは憂鬱な日だからです。では、どういう位置づけにすればよいのか。カザコフ氏は「スムータの後に、国の再生と再建を始めることを祝うのにこそふさわしい」と述べています。
 カザコフ氏の指摘を踏まえて考えてみると、革命記念日の廃止は「臨時政府とソ連期の否定」を、そして「民族統一の日」の制定は「ロシア帝国の時代に立ち帰り、法的な根拠をもってロシアの歴史を作り直すこと」を、それぞれ意味していることがわかります。
 プーチン大統領の頭の中には「強いロシアの再興」という明確な目標とそこへの道筋が描かれていますが、全てを口にはしない彼の性格(選挙でプーチン大統領が選出されたということは、国民は彼の大きなプロジェクトを支持しており、その実現プロセスに関して口を出さないという約束をしたということを意味する)が日本の「専門家」に「ソ連の再興」という勘違いを生じさせているのかもしれません。



参考文献:
アレクサンドル・カザコフ(2020)  『北の狐-ウラジーミル・プーチンの大戦略-』 東京堂出版
鈴木啓助(2011) 『地球支配階級が仕掛けた悪魔の世界戦争ビジネス』 Gakken
ヘドリック・スミス(1978) 『ロシア人』(上) 時事通信社
ヘドリック・スミス(1978) 『ロシア人』(下) 時事通信社