2/262022
カテゴリー:ウクライナ情勢
  今回の危機の真ん中にいるのはウクライナ。この国に今怒濤の攻撃を仕掛けているのがロシアのウラジーミル・プーチン大統領です。「ウクライナはロシアにとって大切な存在であり、ウクライナはロシアの歴史の一部だ」と発言してきたプーチン大統領でしたが、現状ウクライナを滅ぼしてしまいそうな勢いで攻めています。
なぜ、プーチン大統領はウクライナに軍事介入をしたのでしょうか。
「強いロシア」の再興
この言葉は、プーチン大統領に関する多くの書籍に出てきます。今回の介入に関しては、このプーチン大統領の個人的な野望が介入の理由ではないか、という指摘が専門家からなされています。少し詳しく見ていきましょう。
これはソ連と関係することです。プーチン氏は1985年から1990年まで、KGB(ソ連国家保安委員会)の情報員として東ドイツのドレズデンに赴任していました。この期間は、プーチン氏の母国ソ連でゴルバチョフによるペレストロイカ(建て直し)が進められていた時期です。ソ連の社会主義経済を見直し、経済発展を実現すること、「グラスノスチ」として知られる「情報公開」を行うことなどが進められました。また、あまり日本で知られていない「ノーヴォエ ミシュレーニエ(新思考)」も行われました。これはソ連軍のアフガニスタンからの撤退や核兵器の削減などの政治的見直しです。一方、当然ですが、ソ連国内のエリート層はその時まで権力やお金を欲しいままにしてきましたから、変革には反対でした。
同じ頃の東ドイツでのプーチン氏についてはこんな記述があります。「念願叶って手に入れた外国での生活を存分に楽しんでいた。ソ連で悩まされた品不足や行列とも東ドイツは無縁だった。本場のビールのうまさにはまり、11キロも体重が増えたという」(①)。
しかし、このあと転機が訪れます。1989年にドイツでベルリンの壁が崩壊しました。東ドイツの社会主義は終わりを迎えました。プーチン氏はソ連ももう長くはないと感じました。ソ連の改革はどうなっていたでしょうか。体制側の人間が権力を手放したいわけがありませんから、ゴルバチョフの政策に反対しました。政治的対立です。ソ連に深く根を下ろした汚職や不正、いい加減さなど様々な原因から、経済は良くなりませんでした。ここから社会的な対立や民族間の対立が生まれました。もはやソ連でも社会主義は持ちこたえられそうにありませんでした。ベルリンの壁崩壊後、東ドイツの秘密警察シュタージと共にKGBのドレズデン支部も、悪事を暴こうとする市民の攻撃(暴動)にさらされました。モスクワに連絡を取っても、すでに機能不全に陥っていたソ連当局は救援も何もしてくれません。KGB職員は機密書類や身元の分かるものを全て処分しました。プーチン氏が「KGBの要員として築き上げたすべてのものが価値を失い、逆に自分たちの安全を脅かす危険物となっていた(①)」のです。
1990年にゴルバチョフは、ソ連における共産党の指導的役割を規定しているソ連憲法の条項を廃止しました。その後ソ連で初めての自由選挙が行われ、後のロシア連邦初代大統領ボリス・エリツィンらが組織する改革派が大勝しました。改革派はゴルバチョフを必要としていませんでした。一方選挙で敗れた保守派は、改革派によってソ連が消滅させられてしまうことを恐れていました。そしてゴルバチョフは改革派からも保守派からも批判を浴びるようになりました。91年に保守派はソ連消滅を防ぐためにゴルバチョフを軟禁し、クーデター未遂事件を起こしました。自分たちが権力を掌握し、ソ連を存続させようとしたのです。改革派によってこのクーデターは防がれたものの、次第にゴルバチョフは権力を失っていき、ゴルバチョフを助けたエリツィンが権力を握るようになり、ソ連は解体されました。ソ連も民主化の波に抗えなかったのです。ソ連が消滅し、KGBは不要の産物と化しました。
プーチン氏はこのクーデター未遂事件について、ソ連を存続させようとした首謀者の気持ちには理解を示しながらも、このクーデターで自身が酷く傷ついたと言います。プーチン氏はこう述べています。「実際、自分の人生がずたずたになったのだから。(中略)あのクーデターの数日間で、KGBで働いているあいだに私が抱いていた理想と目標がすべて崩れ去ったのだ。もちろん、この事態を乗り切るのはとてもたいへんだったよ。つまるところ、私は人生の大半をKGBの職務に捧げていたのだから。だが選択はなされたのだ」(②)。
これはいつまでもプーチン氏の心に大きな傷として残ることになります。大統領になったプーチン氏は徐々に権力を自分に集め、ロシアの崩壊を防ぐことは当然として、さらなるロシアの発展を心に誓ったのです。東ドイツでは、自身が人生を捧げて築き上げた全てが崩れ去りました。ロシアでは、自身が求めるものを最初から最後まで作り上げたいのでしょう。プーチン大統領がKGB・FSB仲間(しばしば「お友達」とも呼ばれる)を側に置きたがるのは、ソ連末期の同じ思い(悔しさ)を共有しているからではないでしょうか。だから今度は一緒に夢を実現しようではないか、と。
現在多くの専門家が指摘する、プーチン大統領の「強いロシア」構想とは、「西側諸国(特にアメリカ)と対等な立場にある強国」をつくることです。プーチン大統領はアメリカと並ぶ超大国「ソ連」を再興したいのです。しかし、それは過去に自身を失望させた、一部では誇れるが偽りだらけだったソ連ではなく、名実ともにアメリカに匹敵する進化版のソ連です。
アメリカができることはロシアにもできる、アメリカにできないこともロシアにはできる、そしてロシアのやることにアメリカは為す術がない。こういう国を作ろうとしているというわけです。
プーチン大統領の個人的復習が今回の侵攻の根底にあると発言している専門家の見方はこういったものなのです。
■参考文献
①朝日新聞国際報道部 『プーチンの実像』(2015) 朝日新聞出版
②ナタリア・ゲヴォルクヤンほか 『プーチン、自らを語る』(2000) 扶桑社