Темная сторона России

 
    Smith

    今回はロシアの「高層アパート連続爆破事件」についてです。

    1999年にモスクワなどロシア国内の3都市で高層アパートが爆破される事件がありました。当時首相だったプーチン氏はこれをチェチェン独立派による犯行と断定し、他の要因とも相まって第二次チェチェン紛争に突入するという事態に発展しました。ロシア国内のジャーナリストや新聞社の中には、これがFSB(連邦保安庁)ひいてはプーチン大統領による陰謀ではないかという者もいました。本来国民を守る組織が自国民を殺害したとしたら恐ろしいですね。

     この爆破事件に関与しているとされた「チェチェン民族」は。東西をカスピ海と黒海に挟まれ、南でジョージア(旧グルジア)に接するロシア南西部のチェチェン共和国(ロシア国内の一共和国)にその多くが暮らしている民族です。ロシアには200以上の民族が暮らしているにも関わらず、ロシアの民族主義者たちに特別の差別の対象とされることが多く、(教養のない)一般のロシア人からも差別されています。宗教はイスラームを信仰しています(ロシア人は7~8割がロシア正教(キリスト教)です)。

     かつてのソビエト連邦は日本の60倍の面積があり、現在のロシア連邦は日本の45倍の面積をもっています。かつてのロシアはその領域に、バルト3国やフィンランドなど、ソ連解体後に独立した国以外の国も含んでいました。それらの人々は違う言語をもともと話していたり、違う宗教を信仰していたりしましたし、歴史も伝統も文化も生活スタイルも違っている場合がありました。ですから、以前から独立したいという希望を持っていた地域はたくさんあったわけです。チェチェンに関しては、ソ連解体後、新生ロシアとなってから独立を目指す「独立派」の人たちの活動が目立ってきました。宗教はイスラーム系ですからはじめから異なっていましたが、文字もキリル文字からラテン文字に変えようとするなど、ロシアと距離を置こうとしました。ロシアとしては、チェチェンの独立を認めてしまうと他の地域からも同じような要求がなされて厄介になると考えました。そこで、最初が肝心だということで独立の阻止に動きました。やがて戦闘が大きくなり、チェチェンの武装勢力とロシア正規軍との間で第一次チェチェン紛争が始まりました(1994)。
     ロシア正規軍は(自国の一部である)チェチェン共和国へ侵攻し、これが国際社会から避難を浴びて、イスラーム諸国から同胞であるチェチェン武装勢力に援軍(ムジャヒディーン)を呼び寄せる事態になりました。チェチェンは山岳民族であり、山岳地帯での戦闘に慣れていました。ロシア正規軍はここで苦戦しました。また、チェチェン側の一勢力としてアル・カイーダのメンバーも参戦したと言われています。これは強力な援軍です。結局ロシア正規軍は翌年の95年に撤退しました。事実上ロシア正規軍が、ロシア領内の一共和国の武装勢力に負けたということになったのです。これはロシア政府、軍関係者そして国民にとっても苦い思い出となりました。
     そして4年後、高層アパート爆破事件が起こりました。政府がチェチェン人による犯行と断定すると、ロシア国民は第一次チェチェン紛争の記憶を呼び起こしました。ゴルバチョフやエリツィンが晩年体調を崩して弱々しくなったのに比べ、突然国民の前に現れた情報機関出身の首相であるプーチン氏(当時彼は国民に全く認知されていませんでした)の言葉は力強く、行動力にも優れているように思われました。プーチン氏はテロとの戦いにおいて力強い言葉をいくつも述べています。例えば「たとえ便所に隠れていようとも息の根を止めてやる」「テロリストは抹殺される」など。
前年の98年にはチェチェン武装勢力がダゲスタンに侵攻し、首都を構えました(国名は独立要求当初からチェチェン・イチケリア共和国、新都はグローズヌィ)。プーチン氏はすぐに軍をチェチェンに送り(実は首相には軍を動かす権限はありませんでした)、ここに第二次チェチェン紛争の火蓋が切って落とされました。戦闘は翌年の2000年にロシア正規軍の勝利で終結しましたが、国際社会からは大量虐殺だとして非難され、チェチェン紛争に関係するチェチェン人(紛争で家族を殺されたひ人びと)による復讐劇といわれるいくつかのテロ事件がその後もロシア国内で発生しました。ロシア政府や正規軍に関係する人びとからはこの紛争での勝利が賞賛され、プーチンは2000年3月の大統領選挙で大統領に選出されました。
     2001年にアメリカで同時多発テロが発生して以降、各国がテロとの戦いに本腰を入れ始めました。ロシアは上記のとおり、90年代からイスラム過激派との戦いを始めており、チェチェン紛争(自称イスラム過激派との戦い)の正当性を同時多発テロを以て大々的に宣伝しました。チェチェン紛争ではアル・カイーダのメンバーが参戦していたということもあり、同時多発テロの際にプーチン大統領は当時のブッシュ米大統領に対テロ活動で協力しようとラブコールを送りました。実はクリントン元大統領やブッシュ元大統領(当時は大統領候補者)はチェチェン紛争に関してロシア側に戦闘をやめるようにと強く要求していました。そのブッシュ元大統領はイラク戦争を始めました(しかもこれは石油利権の確保が最大の目的と言われています)。ロシアへの非難はいつの間にか消えてしまいました。そして現在のロシアはテロとの戦いと言えば何でもまかり通る国になってしまいました。

     観たことがある人もいると思いますが、ロシアのテロとの戦いに関する日本のテレビの映像で、たびたびチェチェン人が取り上げられ、中でも2004年に起きたベスラン学校占拠事件が報道されます。これはチェチェンの独立派がロシアの北オセチア共和国で起こした学校占拠事件であり、警察・軍・特殊部隊なども出動して沈静化が図られました。「激しい銃撃戦の末、多数の死者を出した」などとと放送されていたと記憶していますが、これは事実とは少し違います。2006年に(おそらくFSBによって)暗殺されたロシアのジャーナリスト、アンナ・ポリトコーフスカヤ氏によると、学校に生徒や職員、その他の関係者が大勢人質としていたにもかかわらず、軍が戦車で校舎に砲弾を浴びせたようです。犯行グループもほとんどが死亡しましたが、なによりも多くの学校関係者の貴い命が犠牲となりました(386人の死者のうち186人が子ども)。日本では考えられません。その2年前にもモスクワの劇場で占拠事件がありました。「ノルド・オスト」という劇の最中に武装勢力が侵入し事件を起こしました。この時犯人側の要求で交渉役に選ばれたのがポリトコーフスカヤ氏でした。彼女は「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙の記者で、ロシアの真実を伝え続けていました。彼女の書く記事は、政府にとっては都合が悪く、虐げられている人たちにとってはその厳しい境遇を世界の人びとに知ってもらうことのできる唯一の方法でもありました。武装勢力は彼女から世界に真実を伝えて欲しかったのでしょう。彼らが最初からテログループのメンバーだったかはわかりません。チェチェン紛争を経験してそうならざるを得なくなった、もとは純粋で優しい人間だったのかもしれません。しかし全ては闇に葬られました。ロシア政府は劇場に毒ガスを撒いてテロリストを抹殺することを命じたのです。ポリトコーフスカヤ氏は助かりましたが、武装グループと多くの一般人(観客)が亡くなりました。
     ベスラン学校占拠事件では、「テロリストとは交渉しない」というのはこういうことだと言わんばかりに派手な「演出」をしたのです。これによりプーチン政権の支持率は上昇しました。実はロシアでは、テロリストに対する大統領の派手な発言や攻撃がなされるたびに支持率が上昇していました。ロシアでは力強いリーダーが好まれます。細かいところ(人の死に関して「細かい」なんて何事だと思いますが)は気にもとめられません。プーチン氏はテロリストに対してこうも発言しています。「われわれは犠牲を惜しまない。惜しむだろうなどと期待するな。たとえそれがどれほど大きな犠牲だったとしても...」

     上にも書いたとおり、この第二次チェチェン紛争は、権力の掌握を目論むFSB(ロシア連邦保安庁)がプーチン氏(元FSB長官)を大統領に就任させるために起こしたものだといわれています。つまり「ロシア高層アパート連続爆破事件」はロシアの情報機関によって引き起こされた事件であり、日本でも報道された「チェチェン人の殺人犯」などは存在しなかったということです。本来自国民を守るべき情報機関が、権力掌握のためにチェチェン人以外の自国民を爆殺し、チェチェン人の犯行に見せかけて反チェチェン感情を国民に植え付け、第二次チェチェン紛争を民意を背負うかたちで起こしたのです
     2006年に暗殺された元FSB将校(プーチン氏の部下でもあった)アレクサンドル・リトビネンコ氏は別の方面からも述べています。リトビネンコ氏によると、もともとロシアの指導部の3人(連邦警護庁長官バルスコフ、ロシア連邦第一副首相ソスコヴェッツ、大統領保安局局長コルジャコフ)はジョハル・ドゥダーエフ(チェチェン共和国大統領)から金を巻き上げていました。3人は、チェチェン独立に関して政治的便宜を図ると話を持ちかけ、また第一次チェチェン紛争の際にチェチェン領内に残されたロシア正規軍の武器(国家のもの)を共和国側に(勝手に)売ると言ってその代わりに金を要求しました。3人が要求する賄賂が高額になるにつれてこの関係はこじれていき、ドゥダーエフは「汚職をしていることをエリツィンに話す」と逆に3人を脅すようになりました。そこでバルスコフ、ソスコヴェッツ、コルジャコフの3人は、ドゥダーエフを始末し、かつエリツィン(民主化を進める人間はソ連の既得権益者にとって邪魔な存在です)を政治的に排除して政権を掌握しようと考えました。そこでロシア国内でチェチェン人の仕業に見せかけた爆破事件を起こしたのです。ロシア人たちは第二次チェチェン紛争後、ロシア正規軍が使っていた武器で多くのロシア人が殺されたことを知り、疑問に思ったといいます。この原因は上記3人による武器の売却だったのです。

     ロシアではほんの数人の利己主義のために多くの人が犠牲になるという事件が頻発します。ここ最近でも地下鉄の爆破事件や連邦保安庁職員の暗殺、駐ベルリン・ロシア大使館員の転落死、飛行機の墜落事故などロシアに関するよくない出来事が度々ニュースに登場しますが、筆者はいちいち勘ぐってしまいます。誰かのくだらない目的のために他の誰かが交渉材料として殺されてしまっているのではないか。もしそうだったら怖いですね。そういう闇に興味があるのも事実なんですが。



参考文献:
アレクサンドル・リトビネンコ、ユーリー・フェリシチンスキー(共著) 中澤孝之(監訳)『ロシア 闇の戦争』(2007) (光文社)
アンナ・ポリトコーフスカヤ(著) 鍛原多恵子(訳)『プーチニズム』(2005) (NHK出版)