1999年にプーチンが書いた論文「千年紀の境目におけるロシア」では、次のように述べられていた。「ロシア社会にはパターナリズムの心情が深く根付いていたことも事実である。自身の状況の改善を、ロシア人の大半は自らの努力、イニシアチブ、やる気よりもむしろ国家と社会からの助けと支援に結びつけることに慣れてきた。この慣れは極めてゆっくりとではあるが消えていっている。これがよいことなのか悪いことなのかという問いに答えることはすまい。こうした心情があるということが重要なのだ。しかも、この心情は今のところまだ優勢である。それゆえ、考慮しないわけにはいかない。なにより社会政策においてはそうすべきである」。
ロシア人と接し、彼らの生活の話を聞いたり、一緒に行動したりしてみると、プーチンが述べた「パターナリズムの心情」が彼らに浸透しているということを感じることができる。「パターナリズム(父親温情主義)」とは、父親が子どもに言い聞かせるようなもので、宮台真司の言葉を借りれば、「『お前にはまだ分からないだろうが、これはお前のためだ』という類いのコミュニケーションのこと」である。ロシアではほぼ全ての問題が他人や政府のせいにされて、自分自身の行動を反省したり責任をとったりするようなことは稀である。プーチンの指摘は的を射ているが、ロシア国民はというと、ロシアの様々な面での発展を阻んでいる一つの大きな要因がそれであると思っていない場合が多い。日本を含む西側の国々にしても、独裁者プーチンがロシアの発展を阻んでいるかのようなメディアの報道を真に受けて、実情を理解していない場合が多い。そこで今回は、ロシアに根付くパターナリズムの心情の背景とプーチンが何を意図して論文にこれを書いたかを分析していく。
パターナリズムの根付き
ロシアにおいてパターナリズムの心情が根付いたのには2つの原因があると考えられる。カトリック的な宗教観と「ソ連」というシステムだ。
宗教的なことに関しては、木村汎の『プーチンとロシア人』に言及がある。「ロシアがビザンティン文化の影響下にギリシア正教を取り入れ、その後もプロテスタンティズムの運動の影響や洗礼を受けなかったために、どちらかというとカトリック系の人生観に似通ったのではないか」「ロシア人は、イタリア人、スペイン人、フランス人らと同じく、できることならば労働を避け、長いバカンスをとり、労働以外の人間活動に時間とエネルギーを割こうとする。このような傾向がより強いように感じられる」
ロシアの場合、これが責任転嫁にも繋がっている。常に頭の中は余暇活動に関する考え事が支配していて、労働はおまけ程度のものだ。だから責任を感じて余暇活動の時間を返上してまで労働に関することを考えるということはないし、そもそも労働が他人の活動に影響を与える重要なものであるという認識がない。義務と権利に置き換えてみるとわかりやすい。権利(~することができる)が優先され、義務(~しなければならない)は後回しにされる。義務は、それをする必要があるから設定されているのに、ロシアではそれが行われていない。みんなが揃って義務より権利を優先するが故に、一方が義務を怠ったときに生じる他方への不利益が気に留められないのだ。このようなカトリック的な宗教観が、「責任」の概念を一般人の頭から消している。そして社会の若いの悪い部分は誰かが改善すべきという考えに繋がっている。
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「ソ連」というシステムも同じようにロシア人の中から「責任」の概念を消し去った。ソ連時代は、中央政府が「計画」をして、国民はそれに従っただけだ。PDCAサイクルで言うところのD(実行)のみを国民は行っていたわけで、責任を負うことはなかった。「評価」も「改善」も国民の知ったことではなく、ただ「実行」のみが行われていた。悪い事態が起きても、暴言を吐いて耳を塞いでいればそのうち全てなんとかなった、というソ連時代の風習が今もロシアでは残っている。
ロシアは90年代初頭に民主化に失敗し、ソ連解体という出来事に見舞われたが、プーチンはその大きな原因を、自身を含めた国民ひとりひとりの無責任にあると考えている。だからこれを「パターナリズムの心情」と名付けてロシア人が克服すべき優先事項として挙げている。
民主主義と全体主義
プーチンによれば、今はこのソ連時代のようなパターナリズムの傾向が「ゆっくりとではあるが消えていっている」らしい。これが良いことなのか悪いことなのかに関してプーチンは答えないと述べているが、その理由は今の日本とロシアを比較してみることでわかる。
パターナリズムの蔓延していない社会は、人々が自立し、主体的に活動している社会だ。つまり個人的な目標を掲げて、その達成のために試行錯誤を繰り返すという、ソ連では見られなかったことをしている社会だ。日本はそのような社会の一員であるといえる(実際は、いえた)。日本の政治について見てみると、多くの政党・政治家が、各自の目標と達成のための手段を提示して国民に支持を訴える。政治参加率は低いが、有権者は自身の支持する目標と手段(方法)を掲げる政党・政治家に投票する。今年は統一教会の問題がニュースで騒がれたが、投票用紙の改ざんなどは皆無で、一票の格差等の問題はあるが、開かれた・比較的公平な選挙が行われているといえる。一方で、政党が多すぎたり、ころころ名前が変えられたり、不祥事が相次いだりするなど、政党間の違いの明確さや信頼性の低さから、またそもそも日本がどこに向かうべきかわかなないという理由から、どこに投票したらいいかわからないという人が続出している。つまり民主主義が機能しなくなっているのだ。グローバル化の加速とその逆の疫病等による保護主義的傾向の強まり、戦争など、複雑な問題を抱える今日の国際社会には、日本のような状況に陥っている国が多くある。それらの国でも同じように民主主義の限界が囁かれているわけだ。
これを踏まえてロシアの政治を見てみる。政党はもちろん複数あるが、ロシアの場合は特殊で、「プーチン党」とも呼ばれる「統一ロシア」という政党が、極左(革命勢力)を除く全てを包摂する政治空間として存在している。統一ロシアはリベラル保守の立場で、あるときは自由主義的に、またあるときは保守主義的に政策を行う政党だ。この「統一ロシア」という枠組みの中で右も左も議論を戦わせるというのが、プーチン政治のやり方だ。プーチンが国民に問うていることは、「偉大なるロシア」の復活というプーチンの大きな目標に賛同するか否かということで、これは大統領選挙の際に諮られる。そして一度プーチンが選出されれば、「偉大なるロシア」復活のための条件となるもう少し小さな目標の設定と、それを達成するための手段について、プーチンに一任するということを意味し、後から国民が横槍を入れることは許されなくなる。一種の独裁政治を敢行しているわけだ。しかし、プーチンはオリバー・ストーン監督との対談の中で、「独裁自体が悪いわけではない。問題は誰が独裁を行うかだ」と述べており、それは間接的に、自身が独裁を行うことは問題なく、それがロシアのためになっている、といっているわけだ。プーチンの独裁は、日本を含めた西側メディアから度々非難されている。「民主主義の不在」という言葉が新聞によく出ている。選挙のたびに不正選挙であるという報道がなされるが、これは大した根拠を伴っていない。「極左を除くロシアの政党はどれもロシアの未来を想っている」ということをプーチンは理解している。「民主主義が大切である」ということも理解している。しかし、思い描くロシアの未来図やその達成のための手段が政党間で異なり、加えてその政党の数が増えすぎれば、複雑な国際情勢とも相まって、国民はいずれどこに投票していいかわからなくなる可能性がある。つまり、仮にロシアが西側のイメージする民主主義政治を行ったとしても、将来的には今の日本のような民主主義の危機に陥る可能性があるということだ。だから、そうなるくらいなら権威主義的または全体主義的要素を用いて、政治空間をコントロールすることも悪くはないだろうという考えに至るのだ。
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不完全情報領域と完全情報領域
日本の話に戻るが、民主主義の限界が囁かれている今、議論されているのは「全体主義」です。これは日本だけでなく、民主主義の限界を感じている他の国でも同じだ。宮台(2014)では「『民主主義単独では、民主主義の前提を調達、維持できない』という見立てになった」と書かれている。そして「民主主義保全のための全体主義的方向付けが、条件付きであれ肯定されるようになってきている」とも書かれている。
「民主主義の前提」とは何か、この答えはプーチン路線を継承するメドヴェージェフの2009年の論文にも書いてある。「すべての問題を解決するべきなのは国家、あるいは他の誰かであって、間違っても自分ではない」などという考え方をしないこと。つまり、人々が自立して行動することだ。しかし繰り返しになるが、今日ではグローバル化が社会不安を増大させたため、宮台(2014)にあるように、人々がその不安を埋め合わせるべく「カタルシスと承認を求めて右往左往」するようになってしまったのだ。こうして「ヘイトスピーカーやクレイジークレーマーが溢れがちなポピュリズム社会」が生まれる。そうすると「不完全情報領域があれば、極端な意見を言う人ほど、カタルシスと承認を調達できるがゆえに、ポピュリズム的に他者を圧倒しがち」になり、「投票行為において見られるのみならず、投票に先立つ熟議においてすら見られる」ようになる。これが民主主義の危機だ。
この状況を抑える一つの方法は、「不完全情報領域」の最小化を図ることだ。ここで力を発揮すべきなのが専門家たちだ。しかし、専門家たちがどれだけ客観的な情報を誠実に提示してくれるか、またそれをどう国民の間に広めるかという点に問題がある。情報を伝えるメディアも公平さを欠き、政府は不祥事ばかり起こしている、このような状況で最小化は不可能だ。だから日本は混乱が広がり沈没していくだけだ。
ロシアではプーチンが「目標」と「手段」を決定しているということは、上述のとおりだ。「不完全情報領域」が大きくもはや収拾不可能な民主主義の危機を迎えている日本とは異なり、ロシアでは人々は右往左往する状況にはない。なぜなら全ての情報が「完全情報」としてプーチンの頭の中に落ち着いているからだ。しかし、それは同時にプーチンに頼りきる国になってしまっているということも意味する。プーチンもメドヴェージェフも民主主義を軽んじているわけではなく、ただ慎重にことを進めようとしているのだ。問題の解決に向けて主体的に努力することを国民に求めるメドヴェージェフの言葉から、プーチンに頼りきった思考停止状態(=パターナリズム)から国民を目覚めさせようとしていることが分かる。そのためには、まずプーチンの「完全情報領域」を国民に共有する必要がある。ロシアで行われているメディアへの統制はこの点で重要になってくるのだ。間違った認識に基づいた情報や、根拠のない情報、意図的に歪曲された情報をばらまかれないようにするために、メディアが統制されている。「完全情報領域」もしくは「最小化された不完全情報領域」を以て民主主義を行えば、今日日本が直面している民主主義の危機に直面しなくてすむ(可能性がある)というのが、ロシアの考えなのだ。
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パターナリズムの消失と政策決定
いずれロシアからパターナリズムが消え去るというのが、プーチンの思い描くところだ。しかし、上述のとおり、その作業は非常に慎重に行われている。なぜそのように行われるのかといえば、それはプーチンがソ連解体を「20世紀最大の地政学上の悲劇」だと考えているからだ。ソ連解体直前までプーチンは東ドイツに赴任していた。その間ソ連では、自由主義や民主主義を声高に叫ぶ国民が急増した。そのとき人々が求めた「自由」は、例えば19世紀のような紙の上での自由ではなく、表現の自由や財産権など、私たちが今日謳歌している類いの自由だった。ところが体制転換後、蓋を開けてみれば、求めていた自由は手に入らなかった。カザコフ(2019)の言葉を借りれば「軽率な変革が、官僚とオリガルヒの放恣をもたらし市民に与えられたのはたった一つの自由、生き残る自由だった」のだ。「軽率な」を補足すれば「無計画な」「急激な」といった言葉がぴったりだろう。70年もの間パターナリズムに慣れていたロシア人が自分たちで状況を変えていくのには難しいものがあった。しかし、彼らはそのことを分かっていなかったのだ。この失敗によって多くのロシア人が一層苦しい生活を強いられ、プーチンもその例外ではなかった。このような経験から、プーチンはロシアの自由や民主主義の発展を慎重に推し進めようとしているのだ。
プーチンは今、「目標」と「手段」を自分で決めている。パターナリズムの消失後は、プーチンではなく国民がこれを決めていくことになる。今「目標」と「手段」の双方を国民が決めると、90年代初頭のよう(大混乱)になる可能性があるため、先に「手段」が解禁されると考えられる。つまり「ロシアはどこに向かうべきか」を決めるのは依然プーチンであり、「どういうプロセスを踏んで達成するか」は国民が決める(選挙で政党を選ぶ)という方法が採られるのではないかということだ。このようないわば練習段階を経て「目標」についてもいずれは国民が決めるというやり方になると考えられる。
《参考文献》
カザコフ・アレクサンドル(2019) 『ウラジーミル・プーチンの大戦略』 東京堂出版
木村汎(2019) 『プーチンとロシア人』 産経新聞出版
宮台真司(2014) 『私たちはどこから来て どこへ行くのか』 幻冬舎
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