サンボと国家権力

    ロシアは言わずと知れた格闘技大国だ。今日でも世界の有名な格闘技の団体には多数のロシア人が所属していて、中には頂点を極めた者もいる。団体によってはロシア人選手が強すぎるが故に、団体の看板選手を守るためにロシア人選手とは契約しないというところもある。こんなふうに世界から恐れられているロシア人選手であるが、実は彼らにはある特徴がある。それは彼らがソ連式柔道「サンボ」をバックボーンとしていることが多いという点だ。サンバではありませんよ。格闘技を知らない人には馴染みのない名前だろうし、聞いたことがある人もその中身はほとんど知らないだろう。そこで今回は、数ある格闘技の中から多くのロシア人が愛する「サンボ」に注目して、それがどのように誕生し、ロシア人にとってどんな意味を持つ存在になったのかについて紹介していくことにする。

ワシリー・オシェプコフ

    サンボ《самозащита без оружия》(武器無しの護身術)は、ソ連時代の1930年代後半に、日本で柔道を学んだワシリー・オシェプコフ (1893年1月6日-1938年10月10日)によってその体系がつくられた、現代ロシアの国民的スポーツである。そして柔道やボクシング、相撲、ムエタイなど、様々な格闘技を融合させて創られた「万能の」格闘技である。サンボを作ったオシェプコフは、実は日本で嘉納治五郎のもとで学んだ、非常に日本と関係の深い人物である。まずは彼の物語を先に簡単に書いておこう。
       オシェプコフは1907年から1913年まで日本の神学校で学び、また講道館で嘉納治五郎の教えの下、柔道を学んだ。彼は6か月で初段を得て、母国ロシアに戻り日本の柔道とその精神をロシアで広めようと考えた。しかし、ロシアに戻った彼を厳しい現実が待ち構えていた。フロペツキー(2015:p.280)によると、ロシア正教の主教のニコライ がオシェプコフに対して以下のように語ったと述べられている。「お前は、この広大なロシア帝国民の国民的性格というものを知っているのか?百を超える大小の民族がその独自性を保ちながら、互いに学び合っているとしたら、その国民的性格を理解することが、そもそも簡単に行くはずがないであろう。そして、お前自身、この弟子たちがどういう人間になってもらいたいのかを、十分かつ明瞭に理解しているのか」。柔道の技と精神を教えたいオシェプコフの下に集まってきたのは、殺し方を学びたい弟子たちだった。なぜならロシアはそもそも治安が悪く、加えて当時は第一次世界大戦の直前で、近くロシアを巻き込んだ戦争が起こるとされていたからである。戦争で生き残るためには敵を殺す他ない。殺し方を教えない柔道は、当時のロシア国民が求めていたものとは違っていた。つまりオシェプコフの柔道は必要とされていなかった。オシェプコフは自身が身につけた柔道を発展させて、より実践的な格闘技を作る必要があった。
     ニコライの言葉からわかるように、ロシアには当時100を超える民族がいた(※現在は200を越えている)。争いごとが起きないように、彼らの文化や習慣も尊重していく必要がある。オシェプコフがありとあらゆる格闘技を合わせてサンボを作ったのには、多彩な技を組み込んだ「万能の」格闘技を作りたかったことに加えて、より多くの人・民族にとって親しみやすいものを作りたかったからなのではないかと考えられる。
     これは非常に分かりやすいサンボの説明であるが、嘉納治五郎は戦場の白兵戦の中で格闘術を学び、そこから危険な技を取り除いて柔道を創ったのに対して、オシェプコフはその柔道に実践的な(危険な)技を組み込んでサンボを創った。つまりサンボは、格闘技が原点(戦場での白兵戦そのもの)に回帰した形なのである。
このようにして、オシェプコフは現在のサンボの原型を作った。彼自身はスターリンの大粛清によって1937年にスパイ容疑で捕まり、翌年に獄中で息を引きとった。のちにオシェプコフの弟子であるアナトリー・ハルランピエフ(1906年10月29日-1979年4月16日)やビクトル・スピリドノフ(1882年12月20日-1944年9月7日)らがサンボを完成させた。



広告スペース 4