ロシアの大きな社会問題の一つに、家庭内暴力(以降DVと記述する)が挙げられる。別記事で述べたように、男性が強さを求める理由は、第一に、恋人や家族や国家を守るためである。しかし実際には、その為の力の矛先が、守るべき家族に向けられているという現状がある。「弱いものを守るための強さ」という観念からは外れているように見えるこの状態は、なぜ生まれたのだろうか。その現状と理由を見ていく。
モスクワ・タイムズ紙によると、2016年にプーチン大統領は、ロシア最高裁判所が出した判断に基づき、「DVは街中の暴漢の暴力と同等だと規定して、この暴力を、国によって調査されかつ起訴されるべき刑事上の罪として嫌悪する」として、DVに関する刑法の改正案に署名した。これはロシアにおいては非常にまれな立法上の動きである[1]。というのも、ロシアではDVは家族内の問題であり、それに対して外部から他人(家族構成員以外)がとやかくいうべきではないとされていたからである。
ロシアでは毎年、数万人の女性や子供が暴行やレイプ、殺人などの被害に遭っている。ロシア政府の公式統計によると、2016時点でロシアの暴行事件の最大40%はDVであり、一年で36,000人の女性と26,000人の子供がそれぞれ暴行されているとのことである [2] 。
Anna Center の調査では、毎年14000人の女性が、DVが原因で亡くなっていることがわかっている。また、Anna Centerは、ロシアのDVに関する統計の正確なデータは入手困難であるとした上で、現在わかっているものとして、DVの被害者の74%が女性で、彼女たちのうち91%は夫から暴力を受けていると報告している。また、被害者の72%が国の機関(警察)に届け出たが、そのうちの80%は警察の対応に満足できなかったとも書いている[2]。
(ソ連崩壊後の混乱期の様子から)ロシア人の生活環境を考慮すると、過度の飲酒がもたらす自制機能の低下がDVの原因であるという見方も当然あるだろう。しかし近年のロシアではアルコールやタバコ離れが進み、生活の質が上がってきている。そういった状態の中でもDVが減らないことから、他の要因も存在していると考えられる。生活の質が原因でないとすれば、DVはロシアの伝統的な文化・習慣に起因している可能性がある。そこで浮かび上がってくるのは宗教的な原因(伝統的な価値観)である。日本と違ってヨーロッパでは、宗教と教育は切り離せないものであり、つまり宗教は日常に深く入り込んでいるのだ。
家庭訓「ドモストロイ」
ロシアには16世紀から《домострой》-「ドモストロイ 」と呼ばれる家庭訓が存在し、家族の在り方がそれによって示されていた。この「ドモストロイ」はロシア正教の教えに根幹を置くもので、ロシアの各家庭は、ロシア正教の考え方を、親から子へ、子から孫へと家族の中で教えていったのである。この家庭訓において、男性の暴力は容認されていた。親から子へ、子から孫へと代々伝えられていった中で、暴力がエスカレートした形になったのではないかと筆者は考える。
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「ドモストロイ」の中には「道理にかない、かつ愛をもって行われる肉体的な罰は、神から親に与えられた極めて必要な権利である」という文言がある。ロシア正教会もこの文言を主張・支持している。
以下で佐藤 (1984)を参考にして、ドモストロイの内容について見ていく。ドモストロイは前述の通り、ロシア正教のいわゆる「ルール」である。そこでは、夫と妻、子供、そして召使や奴隷に対してもそれぞれの在り方を定められていて、このルールに従わないということは神への冒涜であり、最後の審判の日に自分で責任を取らなければならないことになる、と書かれている。
DVに関係があるものとしては、佐藤(1984)の中の、以下の2つの章が挙げられる。まずは子供のしつけについて書かれている第17章、そして次に夫の在り方について書かれている第29章である。
第17章「子供をいかに教え、神を敬う心で救うか」の中では以下のように記されている。
己が息子を幼い時から教えを導け。そうすれば年老いた時に息子から平安が与えられ、汝の心は心地好くなる。息子を打つときは加減などしないで打て。笞で打っても死ぬことはなく、体が健康になる。汝が息子の体を打つことによって、彼の魂を死から救うのである。娘があれば貞潔を守り、恥をかくこともなく、従順に従い、自分の意志では行動しないように厳しく育て、愚かにも自分の処女を失ったり、汝を汝の知人たちの笑いものにしたり、大勢の面前で汝に恥をかかせたりしないようにせよ。非の打ち所がない娘を嫁がせれば、偉業をなしたと同じに人々に称賛され、死ぬときに娘のことで嘆くこともない。己が息子を可愛くとも、後に彼のことで喜びを得るために、頻繁に打ち据えなければならい。己が息子を幼い時から厳しく扱え。そうすれば、彼が成年に達した時、彼のことで喜ぶことが出来、悪意を抱く人々の中で汝は称賛され、汝の敵は羨望する。平安と称賛を得るために息子は脅しながら育てよ。遊びをしている時でも息子に対して笑いかけてはならない。甘い顔を見せると、後に大いなる哀しみ、悲哀を味い、汝の心が打ち拉がれるからである。息子には幼い時に権力を与えず、成年になるまで容赦なく打て。さもないと、わがままになり、汝に従わなくなり、息子のために汝は腹を立て、心の病を得、家は混乱し、財産は無くなり、敵には笑われ、裁判所からは科料を課され、腹立たしいことこの上もないことになるからである (佐藤 1984:pp.40-41)。
また、第29章「妻が家政を良くし、家を整頓させ、凡ゆる手芸を憶え、それを召使たちに教え、自らも働くようにさせるために夫はいかに教えるか」の中で以下のように記されている。
夫は己が妻に愛情と思慮のある導きで、妻が礼儀正しい行為について何でも、そしていかに魂を救うかについて夫に尋ね、すべての点で夫に服従し、夫の命令を愛情を持って受け入れ、夫が言うがままに行動するように教えなければならない。第一に妻は神を敬う心を持ち、前に述べたようにして汚れのない体を持たなければならない。床から起きたら、身を浄め、祈りを捧げてから、女たちや娘たちに一日の仕事を指図し、料理の支度をさせ、粉をふるってパンを焼かせなければならない。妻自身どのようにして粉をふるい、こね粉を作り、捏ね、丸め、パンを焼き上げるかを知らなくてはならない。白パンとピローグの焼き方も、どのくらいの粉でどの程度焼くかも知っておかなくてはならない。また、どのくらいの分量からどの程度のものができるか、ふるい粉をいくら使うか、どれだけ焼くかなど、すべてのパンやピローグの材料の量目とその加工の時間を知っておかなくてはならない。そして、肉料理、魚料理、種々のピローグ、ブリン、カーシャ、キセーリなどすべての料理の作り方を、主婦は召使達に教えることができ、また、一切を自分でやれなくてはならない(佐藤 1984:pp.62-63)。
「暴力は愛の証」
「ドモストロイ」は64章から構成されており、ここでは全てを記述することはできない。肝心なことは、理想的な男性(夫)像と女性(妻)像が明記されており、「男性が一家の主人である(男性が絶対的な力を持つ)」とされていること、男性が家族をけん引し、妻や子供が主人の言うことを聞いて支えることで、結束が強まり、よい家族になれるということである。それ故に、《бьёт, значит любит》-「もし彼があなたをぶったら、それはすなわち彼があなたを愛していることを意味する」という言葉がロシアにあるように、「伝統的な価値観」として、愛を持ってさえいれば暴力を加えることが許されていたのである。
DVに関する2016年のこの改正案の施行は、毎年多くの被害を受ける女性や子供を守るためのものであり、それはもちろん未来のロシアを支える彼らの現在や将来を守るという点において重要なものだ。しかし、このルールが深くまで浸透した社会で、伝統的なやり方を変えることはなかなか難しいのではないだろうか。
Anna Center によると、現在ロシアではDVをなくすための取り組みとして、 家庭で侵された暴力による犯罪を民事訴追の対象から外して刑事訴追に含めること、女性に対する暴力を防止するための国家プログラムを採択することなど、DVの防止に関する連邦法を提出する用意があるという。また、大学や学校のカリキュラムにジェンダー教育を含めることや、警察官や裁判官、行政に携わる者に対してジェンダーの教育をすることなども考えられている[28]。
《参考文献・資料》
佐藤靖彦 1984 『ロシアの家庭訓 ドモストロイ』 新読書社
[1] The Moscow Times “If He Beats You, It Means He Loves You” 2016
https://themoscowtimes.com/articles/if-he-beats-you-it-means-he-loves-you- 54866
(2017年7月28日閲覧)
[2] Anna Centre “DOMESTIC VIOLENCE AGAINST WOMEN IN THE RUSSIAN FEDERATION”
http://tbinternet.ohchr.org/Treaties/CEDAW/Shared%20Documents/RUS/INT_CEDAW_NGO_RUS_21870_E.pdf
(2017年11月27日閲覧)
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