ロシアについて考えるときに忘れてはいけないことがある。フランスの犯罪政治学者エレーヌ・ブランが指摘するように、ロシアには「常に、概念と用語の違いの問題は存在する」(p.149)。ロシアにも他の国の言語にある用語は存在するが、その意味や範囲といった概念は同じではないということだ。このことを踏まえた上で、ロシアの政治制度を見ていく。
ロシアに民主主義はあるか
日本の報道をみて、ロシアは民主主義国ではないのではない、と考えている人は多いとだろう。しかし、ロシアにも「民主主義」を意味する「демократизм」という言葉は存在するし、今日のロシアは民主主義のシステムで動いている。そのように見えない理由は、西側諸国が想定している民主主義とは異なる民主主義が採用されているからであり、西側諸国の報道で「独裁者プーチン」というマイナスのイメージの言葉がよく出てくるからでもあるだろう。しかしロシアに関しては、特に日本にはあまり情報が入ってこないのが現実だ。そのような状況においては、メディアの言うことを安易に信じるのもよくない態度であり、ロシアの政治、社会的システム、文化的を分析し、かつ自国のシステムや使っている用語の意味を再評価しながら、制度の違いやそれに基づく社会の様々な仕組みを比較する必要がある。日本とロシアの政治体制は少なくとも理論上はかなり違っている。日本は議会制民主主義を採用しており、国民は選挙を通じて議員を選出し、議会が政府を監視・制御する役割を果たす。多くの政党が存在し、政権交代も行われるため、政治的な競争が健全に機能している。他方ロシアでは、公式には民主的な制度を持つものの、実質的には権力は大統領に集中している。ロシアの選挙は行われているが、選挙プロセスは透明性に欠け、野党の候補者が排除されることが多く、実質的な競争は非常に限られている。権力の集中により、政策決定においても個人の意志が強く反映される傾向がある。選挙制度に関しては、日本は一般的に公正で自由な選挙といわれているが、ロシアでは選挙は形式的で実質的な自由度は低く、政府による干渉が多々見られる。市民の自由という点では、日本ではデモや集会は合法であるが、ロシアでは反政府運動は厳しく取り締まられる傾向が強い。リスクを伴うため、政治参加の意欲がそがれる可能性がある。メディアの自由度では、日本は比較的自由であり、様々な情報を提供できるが、ロシアでは政府による監視や圧力が常につきものである。権力の分立については、日本は三権分立という互いの権力の乱用を防ぐ仕組みを持つが、ロシアは政府が最も強い力を持っている。このような違いは、多くの日本人が知識として知っているところであろう。これらの違いについて、ロシアの政治システムを詳しく分析することで、私たちの理解がどのように変化するのかを考えてみる必要がある。
ロシアの民主主義
ロシアが採用している民主主義の形態は「指導的民主主義(Имитационная демократия)」と呼ばれている。この「Имитационная」という言葉は「模倣した」という意味を持ち、つまりロシアが採用しているのは「模倣した民主主義」である。もちろん模倣する対象は西側の民主主義である。模倣とは言っても、全く同じことをするわけではない。同じことをするときもあれば、違うことをするときもある。あとで重要になってくるのだが、プーチン・ロシアが西側と違うことをするときは、それが熟考した上での選択であるという点に我々は注意すべきである。さて、指導的民主主義の特徴は、目標を国民が決め、達成のための手段をリーダーが決めるというところにある。例えば大統領選挙では、それぞれの候補者が「あれをします」「これをします」「ロシアをこんなところに導きます」というビジョンを示し国民に審判を仰ぐ。選挙は行われるので国民の投票への参加は排除されない。しかし国民の役割はここまでで、一度リーダー選ばれると、任期中は約束した目標に向かって仕事をするため、国民が邪魔をしてはいけないことになっている。反政府デモが取り締まられる理由はここにある。メディアが政府に批判的な報道をするのはある程度制限されている。とにかく6年という大統領の任期期間中は大統領にとって政策実現のために自由に使える時間であるので、その任期終了を待たずに大統領を批判する態度はあってはならないというのが暗黙の了解なのだ。もちろん人権侵害や合理性のなさそうな政策が行われることがあるが、それが無意味なものであるかは最後の最後に目標が達成されたかどうかがわかるまでは判断できないと考えるべきだとされているので、邪魔は許されない。知る権利は存在しないに等しい。なぜなら、ロシア人ならこの原則に従えば、「知ったところで何もしてはいけない。何もしないのだから知る必要はない。だから何も提供しない」という考えに至るからである。西側との違いとして「リーダーと国民の役割が非常に明確に分けられている」というふうに理解してもらえればいい。このような透明性のない制度では、国民は選ぶだけでその後の展開を評価しにくい状態になる。自身の選択が正しかったのか、政策が目標地点に向かって正しい方法で進んでいるか、国のお金が適切に使われているかなどがチェックできない。非常に明確化されたこの「役割分担」、もしくは「分離」は、政策の評価や国民の意見が反映されにくいという民主主義の本質を損なう要因になっている。
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なぜ指導的民主主義か
ではなぜロシアは指導的民主主義が採用したのだろうか。その答えはプーチン大統領が1999年に出した論文「千年紀の境目におけるロシア」に書かれている。
「ロシア社会にはパターナリズムの心情が深く根付いていたことも事実である。自身の状況の改善を、ロシア人の大半は自らの努力、イニシアチブ、やる気よりもむしろ国家と社会からの助けと支援に結びつけることに慣れてきた。この慣れは極めてゆっくりとではあるが消えていっている。これがよいことなのか悪いことなのかという問いに答えることはすまい。こうした心情があるということが重要なのだ。しかも、この心情は今のところまだ優勢である。それゆえ、考慮しないわけにはいかない。なにより社会政策においてはそうすべきである」(日本語訳はカザコフ2019:p.333より引用)
これが全てを物語っている。一言でいえばロシア人は他力本願ということだ。70年間のソ連期の計画経済のせいで、ロシア人はトップダウン式の政治を当たり前だと思うようになった。自分自身だけでなく身近な人たちや国家の未来に思いを巡らし、自分の発言に責任を持って行動するロシア人が少しずつ増えてきているが、ソ連が解体されてから30年以上たった今でも多くのロシア人が、政治に参加して意見を言ったり自身の発言や選択に責任をもった行動をしたりすることを必要だと考えていない。ここにプーチンは、トップダウン式の「指導的民主主義」という政治体制の必要性を感じたのだ。
一方で、プーチンがそのような政治を行うから人々が政治に参画しなくなっている、という指摘もある。そう考えるロシア人は、若い世代に多い。しかし人々の政治参画の割合の低さという問題は、少なくともプーチンだけのせいではない。ソ連を生きていた高齢者世代は責任ある市民としての意識を持つことが非常に少なく、それゆえに若い世代は責任について教わらなかった。90年代は大混乱の時代で、生きることに必死だったため、考える暇がなかった。この時期を生きた人たちが望むのは大混乱のない平凡な生活だ。そのような平凡だが安定した時代をもたらしたのはプーチンであり、その時代に満足している人は多い。ロシアは日本と同じ高齢社会であり、若者の声が政治に反映されにくいのは事実である。まさに多くの人が心の底では求めているであろう民主主義という制度が西側のような形で実現されたとしても、日本同様ロシアにおいても上手く機能しない可能性が大いにある。政治参画の問題に歴史的、社会的な要因が複雑に絡み合っていると言う事実は忘れてはいけない。
指導的民主主義を採用しながらプーチンがロシアに根付かせようとしているのは、「千年紀の境目におけるロシア」から明らかなように、自身で考えて結論を導く力であり、また自分なりの意見述べたり、選択に対して責任を持ったりすることである。この論理的思考力、自己表現力、責任意識を全ロシア人の中で育てようとするプーチンの情熱は凄まじい。プーチンはロシアの愛国者である。自身が東ドイツに赴任していた間に母国ソ連が消え去った。そのときプーチンはKGBの一情報員であり、力を持っておらず、何もできなかった。プーチンが最も恐れているのは、ロシアが国家としての方向性を見失い、混沌とした状況の中で制御できなくなり内部から崩壊していく、というシナリオだ。これは国のリーダーとして絶対に避けなければならない事態であり、一ロシア国民としても避けたい事態なのだ。今のプーチンには以前と異なり力がある。国民が自分たちの言動に責任を持ち始めている今、その流れを止めたり、逆戻りさせたりするわけにはいかない。ロシアが閉ざされた国であるかのように見えるのは、やっと変わり始めたロシアをプーチンが守っているからなのだ。繰り返しになるが、プーチン政権の意図としては、国民の政治的無関心を望んでいるわけではない。むしろ、自ら考え、国の行く末について責任を持って判断できる国民を育てようという姿勢がそこにはある。
余談になるが、教育の現場にはそれがはっきり表れている。ロシアが作成した外国人用のロシア語の試験に「ТРКИ」というのがある。ロシアの大学や会社に入るときに要求される言語運用能力を証明するためのものだ。ここには「手紙」と「会話」という形式が含まれるのだが、この試験で要求されるのは、決められたお題に沿って、ルールに従って、時間内に論理的な回答を書く力だ。難しさは日本で作られた外国人用の日本語の試験「JLPT」の比ではない。日本の試験は、日本で働くために多くの学習者が取得する3級(N3)のレベルですら選択問題しかない。ロシアの試験は自分の言葉で書く、話すという形式が必ず含まれている。ロシアという社会で何が求められているかがわかるだろう。外国人に対してもこのような論理的思考や自己表現の能力をつけさせるのは、ロシア人の知人によると、ロシア人と同じ方向を向けない人間を外から入れることはできないからだという。つまり単なる「言語力」だけでなく、「自立した思考」を共有しなければ、ロシア社会の一員として認められないということなのだ。
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透明性の制限
ロシアの指導的民主主義は、透明性のなさがこの制度の一つの特徴であると述べた。ここで疑問が浮かんでくる。透明性がなければ、各人が幅広い情報にアクセスすることができない。情報を収集する能力、そしてそれを用いて分析し、論理的な結論を導き出す力が育まれないのではないか。これではプーチンの考えるような国民のいわゆる民度の向上という大きな目標が達成できないのではないだろうか。ここで思い出してほしいのは、プーチンが西側を模倣しながらも西側とは違うことをするとき、それは熟考した上での選択である、ということだ。つまりプーチンは、敢えてそれらを行っている。敢えて一部の情報を隠し、敢えてメディアを規制し、敢えて幅広い情報収集ができないようにしている。このように考えるのが妥当だ。なぜそのようなことをするのか、メディアの規制を例に考えてみる。ロシアのメディア規制の目的は「ノイズ」の除外だ。「ノイズ」とは「有用でない情報」や「分析に混乱をもたらす情報」を指す。西側のメディアは多様な視点を提供する役割があるが、視聴率や話題性を優先するために、センセーショナルな表現や偏った報道が増えることがある。その結果、視聴者が情報をそのまま受け取り、自らの意見を形成する余地が狭まる場合もある。また、偏見を煽るような報道が情報の混乱や偏りを招き、意図せずに「ノイズ」を生む原因になることも少なくない。もちろん、国営メディアも同じようなことをする可能性は大いに考えられる。しかし、ロシアのように国営メディアを中心として、統一された情報を国民に流すほうが、混乱は少ない。たくさんのメディアが節度を失って歯止めのきかない情報空間を形成すると、どの情報を信頼していいか判断がつかなくなる。ロシアのように論理的な思考を人々の中に育成しようとしている場合は、このようなノイズはそれを大いに阻害する。プーチンはそれを排除しようとしている。
こう言うと、ロシアには反対意見の存在する余地がない、と思ってしまうかもしれない。しかし、ロシアにも自由な言論空間は存在している。例えばロシアには「Большая Игра」という、様々な分野の専門家がテーブルを挟んで向かい合い討論する番組がある。政府の政策を評価し、批判したり擁護したりする。もちろんある程度発言の内容に制約は課されているのだろうが、それでもこれまで論理的な思考を政治の分野でしてこなかったロシア人にとっては、これらの討論は非常に参考になる。重要なことは、ロシアでは、「ファクト」と「ノイズ」が分けられていることだ。ロシアのテレビを見ると、起こったことがそのまま報道されていることがわかる。テレビのニュースは「ファクト」を伝える。そして決められた番組で専門家等の個人の意見が述べる。この役割分担を利用して、国民が自身である程度分析(評価)することができる。この専門家の説明は無理があるのではないか、こういう見方もあるのか、というふうに考えることができるのだ。対照的に、日本ではニュースでの解説が意見と事実を混在させることが少なくない。例えば、ロシアや中国の首脳会談について「西側へ両国の結束をアピールする狙いがある」などと報じられるが、こうした分析は専門家が行うものであり、ニュースが一方的な見解だけを報じると情報が偏ってしまう。権力の乱用は問題だが、「事実を伝える」というメディアのあるべき本来の姿にはロシアのメディアの方が近いかもしれない。今、ロシアに一定の規制があるのは、成熟した市民が十分に育つまでの過渡期と捉えているのかもしれない。ゆっくりと民度を高めることができれば、将来的にはロシアがより多様で自由な意見を共有できる社会となり、国民が国家の方向性を見定める重要な役割を担えるようになるだろう。
国家を守るために
プーチンがメディア規制や情報統制を行う背景には、彼のロシア国家への深い愛と、国民を「段階的に」成長させようとする考えがある。彼がロシア国家の存続と発展を最優先に考える一方で、ロシア国民に対する完全な信頼を抱いているわけではないということも重要なポイントだ。プーチンは、情報の制約が必要だと考えており、現在のロシア国民が急激な自由や情報の透明化に耐えうる準備が整っていないと見ている。プーチンのこの姿勢は、彼がKGB勤務時代に目の当たりにしたソ連崩壊から学んだ教訓にも基づいていると考えられる。彼が東ドイツ赴任中に、ソ連では民主化の気運が急速に高まり、それが結果的にソ連解体という大きな衝撃をもたらした。この過去の経験から、彼は急激な変革がもたらす不安定さに懸念を抱き、国民が徐々に論理的思考力や責任感を培い、社会の情報空間に適応できるように段階的な成長を望んでいる。つまり、プーチンの考えでは、情報公開も徐々に進められるべきであり、国民が成長し、変革に対応できる準備が整った段階で、より大きな透明性が与えられるはずだということだ。
プーチンが考える「指導的民主主義」は、永続的な体制ではなく、いずれ市民が自立し、国家からのパターナリズム的な依存を脱却することを見据えている。カザコフ(2019)では2000年7月8日(論文を出した翌年)の上院でのプーチンの教書演説の内容が引用されている。
「国家による全面的なパターナリズムの政策は今日、経済的に不可能であり、政治的に不合理である。この政策の放棄は、財政リソースの最も効果的な活用の必要性と共に、発展を促し、人間のポテンシャルを解き放ち、自身とその近しい者たちの安寧に対し責任を持つという思考によって要請される」(日本語訳はカザコフ 2019:p.334より引用)
これについてカザコフ(2019)では「ここに、プーチンの見解と政治の進化が表れている。社会・文化的動機に加え、市民に対して体系的には履行されてこなかった国家の義務を遂行し、それによって国家の権威を高めるために、パターナリズムの心情に配慮する必要があるという考えと政治。それが国家と市民の双方がパターナリズム的心情を徐々に捨て去っていくべきという考えならびに政治へと変化したのである。その進化が起こったのは、パターナリズムの政治が経済的にみて無理だという理由からだけでなく、教育の機能も有している政治は、プーチンが語っているように、社会における創造的ポテンシャルを解き放たなければならないからである」(p.335)と述べられている。
プーチンは、国家が全面的に市民を守るパターナリズム的な役割を果たすべきではなく、むしろ市民一人ひとりが自己責任を持つことが重要だと強調している。その意図は、市民の創造的ポテンシャルを解放し、経済の効率化を図ると同時に、国家と市民の関係が互いに依存しないものへと進化することにある。カザコフによれば、この方向性は社会や文化的な背景だけでなく、国家が市民に対して果たすべき責任を遂行し、国家の権威を強めるという実利的な理由からも導かれたものである。このように、プーチンの考える理想の未来像には、ロシアの人々が自立した思考力や責任感を身につけ、国家に依存せずとも個々に発展を遂げられる社会が存在している。
上述のことから、ロシアは民主主義の本来の姿を実現できるように奮闘している過程にあるということがわかるだろう。プーチン大統領は決して、民主主義の考え方自体を悪いものだと考えているわけではない。それが証拠にロシアも民主主義を模倣している。プーチンが注視しているのは、民主主義のもつ脆弱性だ。一般的に民主主義というものは、聞こえは良いが制度として完璧なものではない。最悪な諸政治制度の中で最もまともに思えるものだから採用されているという事実は忘れてはいけない。人口が何千万、何億と膨らんだ国家や社会においては民主主義という制度も良い制度とは言えない場合がある。社会学の分野では随分前から、西側諸国の現状を鑑み、「民主主義の限界」が叫ばれてきた。正常に機能しなくなった民主主義を分析し、機能不全にさせる問題を先に潰しておこうというのが一つのロシアの考えでもある。
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西側の見方は客観的か
我々がロシアの政治形態や政策が受け入れがたいと思うとき、我々自身の社会をもう再興してみることも必要だ。西側諸国のいう民主主義では透明性や説明責任が重視されるが、ロシアの民主主義ではそれは重要視されていないように思える。西側の民主主義では決定に時間がかかるが、ロシアの民主主義では決まるのが速い。西側では政府の法案が否決されることがあるが、ロシアでは否決されない。西側には民主主義に不可欠な自由なメディアがあるが、ロシアにはない。西側には独立した司法制度があるが、ロシアには政府に逆らえない司法制度しかない。このようなイメージを持っている日本人は多いはずだ。こうして比較するとロシアの民主主義はよくないものに見えるかもしれないし、そもそも民主主義にすら思えないかもしれない。だが次のような事実を踏まえると、日本の制度もロシアと同じように様々な問題を孕んでいることが分かる。
比較対象として日本の政治を考えてみたい。
説明責任は果たされているだろうか。最近の政治を見ると特に、全くそうは思えない。最近も政治と宗教や、政治とカネをめぐる問題があった。見えないところでコソコソと悪事を働き、「記憶にございません」とか「お答えを差し控えさせていただきます」とか、そんな言葉で説明責任を逃れようとし、時間と共に忘れ去られていく。説明をしないのならロシアと変わらない。意思決定にかかる時間はどうだろうか。慎重な審議が行われることは重要だが、非常に長い時間がかかるし、その結果次第では議案が可決されないこともある。意思決定のスピードが遅いということは、政策を実行に移すまでに時間がかかるということを意味する。本当に必要としているときに必要な人に必要なものが提供されない可能性がある。ロシアなら鶴の一声であっという間に決定される。加えて日本では政策の実行に透明性が伴っていないことがある。非常に大きなお金が動くときでさえ不透明だ。東京五輪に関わる談合事件は記憶に新しい。まじめそうに振る舞っておきながら、実は悪いことをたくさんしている。ロシアは最初から不透明だ。間違いなく怪しいことが行われているが、国民もそれを承知している。日本では国会では国民が求める重要問題の審議が後回しにされ、先に国会の場で話し合うべきものとは思えないものの審議が先に行われ、時間が無駄に使われることがある。ロシアでは逆だ。国民のためになる政策を早々と可決し、その後議員たち自らに利益が出そうな政策を、時間をかけてじっくり考える。日本のメディアも実際はコントロールされている。それは例えば統一教会問題や、ロシアとウクライナの軍事衝突に関する報道などからわかる。特定の組織の名前を出さないようにしたり、根拠やまとまりのない、俗耳に入りやすいことばかりをいうコメンテーターや「専門家」ばかりを出演させたりしていた。どこからか圧力がかかっていることは明白だ。意図的な隠蔽や誤情報に、まじめで純粋な多くの国民が騙されたり踊らされたりすることになる。国民が騙されることで、国民のためにならない政策の施行が決定し、お金が誰かの懐に入る。ロシアなら単純だ。日本と違って、数えきれないほどの偽情報で国民を惑わそうとはしない。1つの真実が根拠と共に報道されるか、1つの偽情報があたかも真実であるかのように報道されるかだ。国民はただそれによって1つの方向に誘導されるだけだ。お金は誰かの懐に入るが、国民のためになる政策は実行される。ロシア国民のためにならないもののように見えるのは、それが気の遠くなるような時間の中で、極めてゆっくりと効果を発揮するからだ。
司法に関しても、三権分立は幻想に過ぎない。冤罪も国策捜査も日本にはある。ロシアに関係の人物で言えば鈴木宗男氏や佐藤優氏も国策捜査で有罪となった。日本では取り調べに弁護人の立ち会いが認められていないし、必ずしも録音・録画されているわけでもない。見えない部分があるのだ。司法は本来行政を監視する役割があるにもかかわらず行政(時の政権)の意向を認めている場合がある。ロシアにはソ連時代から「パズヴァノーチュナスチ」や「チリフォンプラーヴァ」というやり方がある。役人が権限もなしに裁判官に直接電話し、裁判官は必要とされる判決を出すというものだ。
実のところ、現時点では、日本の民主主義もロシアの民主主義も同じようなものなのだ。違うのは、悪い部分がはじめから見えているか見えていないかとか、どういう順番で物事が行われるかとか、それだけのことだ。それにもかかわらず多くの日本人は、プーチン・ロシアを非難し、日本や西側諸国の制度を理想化していることが多い。彼らが「独裁=悪」「ロシア=悪」という単純なイメージにとらわれがちなのには、歴史的背景やメディア報道、さらには冷戦後の「西側=自由・民主」という価値観の浸透も影響している。このイメージによって、プーチン政権に対する批判が「独裁」や「情報統制」に結びつけられる一方で、実際にロシアで行われている政策や、国民がプーチンを支持する側面が見落とされがちだ。しかし、そもそも「独裁」は悪いものなのだろうか。もしくは独裁政治は民主主義と相容れない考えなのだろうか。佐藤(2022)では、カール・シュミットの1924年の著作『大統領の独裁』の、「独裁」と「民主主義」とは矛盾しない、という考えが紹介されている。佐藤氏は、国会議員が国民の民意によって選ばれた存在である以上、その数が100人であっても50人であっても、究極的には1人であってもその本質は代わらない、ということを述べている(p.162)。そのとおりだ。国民によって選ばれた者ならば、議員が1人でも民主主義としては問題ない。だから「民主主義」を標榜する日本人が「独裁」を受け入れられないものだと考えるのは、単にこの二つが全くの別物だと勘違いしているからか、または「独裁」という言葉の意味を狭い視点でとらえているからか、もしくは盲目的にロシアを悪と信じていて、その理由を「独裁」と結びつけているからだ。ロシアでは選挙が行われている。プーチンは国民に望まれている。プーチンがひとりの判断で決定している可能性があることは否定できない。1人で判断しているという意味では「独裁」だが、選挙が行われないわけではないし国民から支持されていないわけでもないので、その意味では日本人の持つ「専制的で国民の声を一切無視する」という否定的な意味での独裁のイメージには当てはまらない。むしろ「民主主義(平等主義)」と「自由主義」を合体させた「自由民主主義」という民主主義を採用している日本の政治制度の方が矛盾を孕んでいて危ないかもしれない。その意味ではロシアの制度のほうが、矛盾がなくてすっきりしている。だがそのように見えないのは、日本がこれまで自由民主主義の矛盾を意識せずにやってこられたからだ。これには経済的な安定や外部からの脅威が比較的少なかったことが影響している。対照的にロシアはかつて経済的にはボロボロで、何世紀にも渡って外部からの脅威にさらされてきた。こうした視点から見ると、日本人がロシアの政治体制を「悪」として一面的に見るのは、無意識に自国の制度を理想視していることに由来する可能性がある。制度の優劣を一概に決めるのではなく、異なる文化や歴史的背景に基づく制度のあり方を理解することは、よりバランスの取れた見方を持つために重要だ。
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国民による評価
プーチン・ロシアの政治制度や政策をロシア国民はどう思っているのだろうか。
2020年7月には、大統領の任期を最大2期12年までとする憲法改正案が新たに可決された。これによりプーチンは2036年まで大統領の座に留まることができるようになった。ロシアに批判的なBBCは2020年7月2日付けの記事[1]で、「反対派は、プーチン大統領が「終身大統領」になることを狙っていると非難しているが、プーチンはこれを否定している」と述べている。プーチンがどういった理由から否定しているかは書かれていない。しかし2000年のプーチンの演説を思い出せば、その理由は明白だ。2020年3月11日付けのロイター通信の記事[2]では、「国家が政治的に成熟した後は任期制限を設けることを支持する」というプーチンの言葉がしっかりと引用されており、この言葉の重要性が認識されている。プーチンは今のところ、変わりつつあるロシアを守るために大統領の地位に居続けることが必要だと考えている。だが国民が「責任」を自覚して行動できるような成熟した国家ができあがれば、自身が大統領として居続ける必要はなくなるとも考えている。だから必要ならもうしばらく自身が指導者としていられるようにと任期を伸ばしただけのことだ。プーチンの考えは20年前と変わっていないという点は非常に重要だ。ロシアでは、政治に興味を持ちながらも、批判を超えて自分なりの考えを持つ人は少数派であり、特にプーチン大統領の最近の発言や政策に焦点を当てるあまり、彼が大統領になった当初の考えを知らない人が多い。このため、プーチンの政策の一貫性に気づけない面がある。またロシアには依然として政治への関心がない人々がまだまだたくさんいる。ソ連時代、一般国民にとって政府は空と同じだった。スミス(1978)は、ソ連の政府についての「われわれと共に、それは、風のように、壁のように、空のように、そこに存在しているだけです。それは何か万古不易の存在です」(p.238)という女性言語学者の言葉を引用している。ソ連人たちは経験した70年という時間はあまりにも長く、多くのものを麻痺させてしまった。「ソ連」は、国民に夢を見させておいて大混乱の時代だけをあとに残して消えていった。今の高齢のロシア人たち、例えばプーチンと同じくらいの年齢の人には、ソ連時代の空虚な生活と90年代の大混乱の記憶がある。それに比べれば、今のロシアの生活はまったく文句を言うに値しない。現状維持で十分なのだ。誰かが現状を打破しようとすれば再び混乱が訪れる可能性がある。彼らはそれを恐れている。これは若者にも影響する。彼らは子どもの世代に、ロシアで変革を起こすべきだなどと教育することはない。しかし、生きてきた時代が異なるため、子どもの世代は孫の世代に政治への関心を持つように教えるかもしれない。混乱期の記憶が鮮明でなければ、それは変革に対する抑止力にはならない。だが孫の世代もまた高齢者の影響を受ける。ロシア人はよく、ロシアの家族を祖母抜きに考えることはできないという。ロシアでも資本主義の発展に伴って、西側諸国と同じように親が子の面倒を見ることが難しくなってきた。生活コストの節約や同居の文化といった背景もあり、三世代で住んでいることも珍しくない。だから孫の世代は高齢者、とくに祖母と時間を過ごすことが多い。30歳に近づいた、筆者の友人のロシア人たちですらソ連時代の大混乱期のようになるくらいなら今のままでいいという。彼ら自身はソ連には生きていなかったし、大混乱期の記憶もないのだが、「日本人には分からないかもしれないが、あの時は大変だったのだ」と口を揃えて言う。親からも祖父母からも耳にタコができるくらい話を聞かされたからだ。彼らの多くは、豊かとは言えないが普通に生活できるという状態に安心し、プーチンを支持している。支持しているというより頼っている。だがプーチンは不死身ではないので、いつまでも生きていられるわけではない。祖父母も先が長くないのは事実だ。プーチンが指摘するように、今のうちに特に若いロシア人は自らに浸透したパターナリズム的心情を取り去る努力をすべきだ。現在の高齢者世代の影響を受けつつも、若者が未来を見据えて自らの責任を果たすことが、ロシアの民主主義の成熟に向けた鍵となる。
政治への関心と無責任さ
一方で、若者の中にも政治に関心を持ち、積極的に関わりたいと考える人々がいる。中には冗談交じりに政治家になりたいと言う人や、外交官としてロシアに貢献したいと考える人もいるが、ソ連時代に根付いた諦めの感情を持つ人も少なくない。諦めの感情を持つ人にはよく出会う。彼らによれば、大統領職はもとより、政治家という身分は今でも特権階級なのだ。彼らには何を言っても取り合ってもらえない。住んでいる世界が違う。それだから彼らは、できるだけ自分も特権階級のようにルールに縛られないように生きようと抜け穴を探すのだと言う。スミス(1978)は、特権階級に対するロシア人の特徴的な反応として、見本市のガイドが言った「一般の人たちは制度のその部分を換えたいと思っていない。そこから逃れたいと思っている。彼らは制度が悪いとは言わない。自分だけに例外であれば、と願っているのだ」(p.52)という言葉を引用している。これは諦めの気持ちを表わしていると同時に、自分もルールを守るつもりはないという意志も表している。それでロシア人の日常を観察してみると、実はそこに特権階級が関係していようとしていなかろうと、「とにかくルールは守りたくない」という思いが行動によく表れていることに気づく。彼らは国内だけではなく国外でも平気でルールや約束を破る。木村(2019)にはおもしろい言葉がある。「ロシア人は空間(スペース)をたのしむ。何よりも好きなのは、肘を伸ばしうる余地 ― 何らの強制もなしに活動しうる余地である。彼らはつねに強制を避けようとしている。ロシア人の生活は流動的である」(p.116)
権力の中心から地理的にも精神的にも遠い場所で、大きく伸びをして自由を満喫したいという気持ちが、ついでに全ての強制力やルールからも離れたい、無関係でいたい、という方向に変化しているのだ。ロシア人はよく「ロシアでは法律を作っている政治家自身がそれを守っていない。だからこっちも守るつもりはない」と言う。小野(2015)は「ロシアでは古くから法を軽視する態度、「法ニヒリズム」と称される態度が批判されてきた」(p.7)と述べている。特権階級の法を軽視する姿勢が、ロシア国民にも真似されるようになったのだろうか。ソ連時代と新生ロシアの特権階級の法ニヒリズムについて指摘する人は多い。だが小野(2015)には、「すでに19世紀半ばに、西欧派の改革論者たちは、ロシアの民衆や官僚の間の法ニヒリズムを指摘し、遵法思想を広めることにより、これを是正する必要性を訴えた」(p.7)とある。つまりこの傾向は、ソ連時代より前からあるのだ。ロシア人が国外に行ってもルールや約束を平気で破るのは、それらを守る必要のないものだと教え伝えられてきたからだ。今を生きるロシア人の「法ニヒリズム」は、ソ連時代の政府とソ連国民との間、または今日の政府と今日のロシア国民の間で生じたものであるだけではなく、もっとそれ以前に生じ、時代の中で強化されてきたものでもあるのだ。だからロシア人たちは、自身の法ニヒリズムを正当化することに政権の法ニヒリズムを利用しているとも言えるかもしれない。仮にそうであるなら、政治に対するどんな考えを持っていようとも、ロシアを変えることはできないのではないだろうか。政治に対する自分なりの考えを持つことは大切だが、やはりまずはプーチンが言うように、国民が「責任」を自分の手に引き受けるという態度や覚悟が必要だ。
ちなみにロシアの情報空間が制限されているとはいえ、彼らは私たちと同様にSNSを利用している。InstagramやFacebookが使えないという報道もあったが、ロシア人はVPNを使ってSNSを楽しんでいる。こうした人々の中には、プーチンを批判する者もいれば、支持する者も多い。また、高齢者はテレビやラジオから情報を得ているため、政府に都合の良い情報しか知らず、若者はSNSを通じて情報を得ることができるため、一般的に高齢者よりも柔軟な思考を持つと報じられている。しかし、これは必ずしも正確とは言えない。同じ情報に触れても、人の思考は一律ではない。高齢者の中にも政府に批判的な人々が存在する。さらに、ロシアでは日本よりも家族の距離が近く、孫と子ども、祖父母がSNSを一緒に楽しむことも珍しくない。したがって、情報共有も頻繁に行われている。高齢者も、情報にアクセスしようと思えば、多くの選択肢がある。西側のメディアは、調査不足から実態を反映しきれないことが多々ある。この点は、ロシアを理解する上で留意しておきたい。
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意外と近い国 ロシア
以上見てきたように「指導的民主主義」は、現在のロシアにとって最も適切な制度であると言える。ただし、「独裁」という言葉の概念は、西側諸国とロシアでは異なる。西側では「独裁」は「1人で判断する」「権力を乱用する」「その座を譲らない」といったマイナスの意味合いで使われ、権力を「ふるっている」とされる。一方、ロシアでは「独裁」と「民主主義」は矛盾せず、選挙を通じて選ばれたプーチンが権力を「行使している」と認識されている。ここでは「独裁」は「民主主義」の一部と見なされ、西側もロシアも同様に「民主主義」を採用しているといえる。日本の事例からもわかるように、西側の「民主主義」とロシアの「指導的民主主義」は、名称や求められる要素が異なるものの、その実態はあまり変わらない。責任の説明が果たされず、それが時間と共に忘れ去られる日本の「民主主義」は、非難していたロシアの「民主主義」と同様の側面がある。そのため、西側の「民主主義」が良いもので、ロシアのそれが悪いとする根拠は乏しい。どちらも欠点を抱えていることは共通しているが、良いか悪いかという議論自体がそれほど重要ではない。重要なのは、冷戦期に完全に異なる政治システムを採用していたロシアが、現在では西側に非常に近い政治制度を持っていることだ。ロシアの実態を深く調べ、日本の現状も冷静に見れば、両者の間にそれほどの違いはないことが理解できる。実際、ロシアは意外と身近な存在である。
《参考文献》
小田博一 2015 『ロシア法』 東京大学出版会
カザコフ, アレクサンドル 2019 『ウラジーミル・プーチンの大戦略』佐藤優監訳 東京堂出版
木村汎 2019 『プーチンとロシア人』 産経新聞出版
佐藤優 2022 『国家と資本主義 支配の構造』 青春出版社
スミス, ヘドリック 1978 『ロシア人(上)』 高田正純訳 時事通信社
ブラン, エレーヌ 2006 『KGB帝国』 森山隆訳 創元社
[1] BBC NEWS JAPAN「ロシアの改憲投票、78%が賛成 プーチン大統領は2036年ま
で続投可能に」
https://www.bbc.com/japanese/53260238
(2024年10月1日閲覧)
[2] REUTERS “Putin approves changes allowing him to stay in power until 2036”
https://www.reuters.com/article/idUSKBN20X1XK/
(2024年10月1日閲覧)
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