ロシアでトレーングが盛んになった外的要因として、ジョージアやモンゴルの影響があったことはすでに述べた。今度はトレーニングの文化に影響したであろうロシア国内の事情を見ていく。ロシアの歴史を語る上で忘れてはいけないのは、中世から近世にかけてロシア地域で領土の獲得や防衛において重要な役割を果たした「コサック」の存在である。
自由戦士コサック
中村(2006:p.30)によると、ユーラシア地域において、13世紀にはモンゴル帝国、15世紀にはオスマントルコ帝国が登場し、この2つの遊牧国家が、スラヴ社会、とりわけロシア社会の歴史に直接関係することになった。ユーラシア地域には、イラン系遊牧民のスキタイや、トルコ系(モンゴル系)遊牧民の匈奴など様々な国家が存在していた。ここでユーラシア地域の遊牧国家の歴史を書き連ねると、広すぎてきりがなくなってしまうので、ユーラシア地域に古代から強力な遊牧国家が存在していた、ということで留めておきたい。
植田(2000:p.15)では、「コサックの役割を抜きにしては今日のロシアの広大な版図はありえなかった。コサックはその時々に、ロシアの領土拡張の先兵となり、さらに獲得した辺境の領土の防人の役割を何世紀にもわたり果たしてきた。コサックの歴史的役割に注目すれば、ロシアの巨大帝国の版図のかなりの部分はコサックによって獲得されたといっても過言ではない。少なくとも、コサックがいなかったら、ロシアの国境線は今日とは違うところに引かれていたに違いない」と述べられている。このことから、ロシア・中央アジア地域の遊牧民を記述するにあたって、そしてロシアの歴史を語るにあたってのコサックの重要性が窺える。
コサックと聞いて我々が真っ先に考えつくものは、彼らの踊りと歌だろう。しゃがんだ状態で脚を交互に前に出し、さらに腕を閉じたり開いたりする、恐ろしく強い体幹がなければできないあの踊りを、ほとんどの人が知っていることだろう。しかし、植田(2000:p.8)では、「コサックの実像は、牧歌的なイメージとは程遠いものである」と述べられている。我々の知っているコサックと実際のコサックにどれほどの差があるのか。以下にコサックの歴史を大まかにまとめる。
阿部(1981:p.16)によれば、コサックの起源は14世紀まで遡り、また大多数はタタール人の脱落者かそれ以外の遊牧民であったという。14世紀には、ロシアはキプチャク汗国の支配下にあり、それぞれ競合する小邦に分裂していた。こうしたなかからモスクワ公国がようやく台頭し始め、北もしくは北東方面に版図を広げつつあった。一方、南ロシアは12・13世紀のモンゴル人の襲来に続いて、14世紀にはリトアニアの支配下に入ろうとしていた。このとき、南ロシアに定住する少数のロシア人を守るために、南方のステップとの境に防護柵や城砦などとともに「自由戦士」たちが配置された。これが本来のコサックである。南ロシアに定住していたロシア人と「自由戦士」であるコサックは、異教徒の侵略に対する共通の恐れと憎しみによって、互いに結束を固めていった(阿部 1981:pp.16-18)。
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ロシアでは、15世紀後半、モスクワ大公イヴァン3世がキプチャク汗国の支配を脱して、周辺諸公国をあわせて中央集権体制を強化してくる。これに伴って、農奴制が全国規模で展開されるようになる。農民収奪が強化されるなか、農民も都市貧民も重労働や重税といった重荷に耐えかねると、しばしば逃亡民となった。そのとき多くの人々は南方のステップに走って、そこに国境防衛のために住んでいたコサックたちに合流して自由コサックとなり、この数は16世紀に急増した。しかし、南方ステップの褐色土壌地帯は住みにくい場所であったため、多くの人々は河川の流域に集住するようになった。こうして成立するコサック社会の中で、比較的早かったものは、15世紀から16世紀前半にかけて成立した、ドニエプル、ドン、ヴォルガなどの大河流域に生まれた各コサックである。彼らは主に狩猟や漁撈、養蜂業を営み、牧畜にも従事したが、しばしば河川を往来する官船や商船隊を襲ったり、近くに住む遊牧民や南のトルコ領、クリミア汗国領に侵入したりして略奪をほしいままにした。こういうコサックたちはモスクワからもリトアニアからも、またクリミアの汗たちからも厄介視され、嫌われ、恐れられた(阿部 1981:pp.19-20)。
皇帝の軍隊としてのコサック
16世紀のイヴァン4世(在位1533-1584)の時代にも、当初、コサックは隊商襲撃やトルコ領攻略などを行って、非難を受けていた。しかし、このころ、シベリアへ領土を拡大しようとする皇帝の思惑に、財力の強化を目指すストローガノフ家がうまくつけこみ、コサックを利用してシベリアを攻略、献上したことで、コサックの立場が変わった。このとき、エルマークが率いるコサックの軍団が活躍した。コサックは皇帝から褒美を貰い、その強さが認められて「ツァーリのコサック」としての地位を与えられ、以後国のために戦うことになった。彼らは国境警備や領土の獲得のために動いた(阿部1981:pp.36-53)。
しかし、17世紀と18世紀には、ロシアで領主の締め付けに対して、ステンカ・ラージンの反乱などの農民反乱がしばしば起こされるようになった。またこの頃ウクライナにおいては、ポーランド人領主がウクライナ地方に進出し、民族的・宗教的な対立が深まった。ここでも農奴たちの権利が無視され、フメルニツキの反乱などが起こった(阿部 1981:pp.184-185)。
19世紀に入ると、ニコライ1世(在位1825-1855)が自身の長男アレクサンドル皇太子(後のアレクサンドル2世)を「全コサック軍団アタマン」 に任命し、コサックはロシアの国家体制の中に完全に組み込まれた(阿部 1981:p.174)。また、コサックは政府から土地まで支給されて、完全に特権的な社会集団に変わった(植田 2000:pp.8-9)。
日露戦争では「逞し気な異国の騎兵の集団が、日本軍歩兵隊を横目に見ながら(まるで眼中にないかのように)土煙を立てて移動していた」(阿部1981:p.4)というように、銃で待ち伏せされていても怯むことなく攻撃を展開した。彼らは非常に好戦的な性格を持っている。義和団事件の際の清国人虐殺や、帝政末期のポグロム についてもコサックの仕業だという宣伝がされ、コサックへの恐怖心が掻き立てられた(阿部 1981:pp.5-6)。
ロマノフ王朝が断絶すると、コサックの伝統が復活して、アタマンは再び軍団総会(クルーグ)で選ばれるようになった。しかし、この頃のコサックは経済的に均質ではなく、階級対立が深まっていた。ドイツとの戦争継続に関して、ドン・コサックは、ドイツとの即時単独講和を唱えるボリシェヴィキ(社会民主労働党の多数派=共産党の全身)に反対して戦争継続を主張した。
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十月革命の際には、コサック兵士全員が反革命政権を支持したわけではなく、コサックの貧農兵士の中には革命を主張するボリシェヴィキの側につく者も大勢いた。それによりコサック陣営は赤いコサック(革命派)と白いコサック(反革命派)に分裂し、コサック同士での戦闘が起こった。しかし、十月革命が成就すると、ボリシェヴィキはコサックの極滅を革命軍に命じ、内戦が生じた。帝政末期に約440万人いたコサック身分の国民は、革命と内戦、弾圧によってその70%が戦死や処刑、流刑死などで死んでいった。ソビエト政権にとって白衛軍の側で戦ったコサックは、ソビエト体制に組み込まれることに抵抗するカフカース地方の山岳民族よりも脅威であるとされ、また革命派のコサックも革命の成就に利用されただけで、その後は敵性分子とみなされて、結局、革命派と反革命派の両方のコサックが徹底的に弾圧された(植田 2000:pp.181-190)。
今日のコサック
しかし、ゴルバチョフが書記長になった後、「ペレストロイカ」「グラスノスチ」といったスローガンを掲げて民主改革に踏み切り、ソビエトのあらゆる分野で新しい風が吹き始めると、コサックたちは復興に向けて動き始めた。抹殺政策後、国内に残っていたコサック家系の二代目・三代目の子孫が中心となって、1988年頃から、コサックの古い歴史や文化、生活習慣の伝統を掘り起こして、コサックの子孫たちの自覚と覚醒を促す啓蒙活動が始まった(植田 2000:pp.195-196)。
コサックの歴史の流れは上記のようなものである。国境付近の警備から始まり、時には国の敵側の集団として、時には国の軍として、抑圧されれば反乱を起こし、戦闘集団として彼らの文化や伝統を長い間守り抜いてきた。抹殺政策が行われたソ連時代の70年間で、戦闘集団としてのコサックは消され、勤労コサックしか生き残れなかった。その影響で、現在、踊りや歌が中心となって我々に知られるようになった。しかし、「コサック=強力な戦闘集団」というのがコサックの実像である。
今日のロシア人たちは、このような戦士たちの意志を受け継いでいる。自分たちの命や文化や伝統を他民族から守るために常に体を鍛えるべきであるという考えは遺伝子レベルで受け継がれており、それが愛国教育と相まってロシア人の心に強く刻まれている。
《参考文献》
阿部重雄 1981『コサック』ニュートンプレス
植田樹 2000『ロシアのコサック』中央公論新社
中村平八 2006『ソ連邦からロシアへ』白桃書房
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